の経過は至って良好だった。
バーナビーが虎徹と2回目に見舞った際にはまだ個室にいたものの、ほどなくして4人部屋へと移され、一人で歩き回っては看護師に注意されるほどだと、彼女は笑って語っていた。バーナビーが3回目にを訪ねたとき、入院患者のフロアにある見舞いスペースと称される椅子やテーブルがある空間で、彼女が相変わらず唐突にこう言った。

「そういえば、ごめん。約束先延ばしにしちゃって」

急に振られたものでバーナビーも一瞬疑問符を頭の上に浮かべたが、すぐに合点がいったように「ああ、」と声を漏らす。
あの日、が事件に巻き込まれる少し前に、二人の間で取り決めた約束。

「…状況が状況でしたから。気にしてませんよ」
「うん、そんでね、私退院して1週間は様子見ろって仕事休んで自宅療養なんだけど、もしよかったらその間に行けないかなって」

よければ今度食事でも行きませんか。確かに自分で言った言葉であるのに、バーナビーには妙に遠い昔の言葉のようにも思えた。
その約束をあんな事件に巻き込まれた後にも関わらずが覚えていてくれたことに、嬉しさを感じないわけではない。しかし休めと言われている人間をわざわざ連れ出してまで、約束を果たそうという気はバーナビーにはなかった。病み上がりに無理をさせて彼女が体調を崩してしまっては困る。

「先生にも、療養といっても復帰できるように多少は動けって言われてるし、大丈夫だよ」
「ですが…」

医者の言葉を引き合いに出してもなお渋るバーナビーに、がダメ押しとばかりに言う。ちょっとだけ、拗ねた顔をするのも忘れずに。

「…それに、1週間も休みだなんて暇なんだもん。バニーちゃん、付き合ってよ」




そんな風なやりとりをしたのが、1週間と少し前のことだ。
最終的に折れたバーナビーの予定に合わせて、今日会うことを決めたのがその次の日。
会うと決めてしまえばその日まで早いもので、あっという間に約束の日を迎えてしまった。
思えばこうして改まって待ち合わせして会うのは初めてな気がする、とバーナビーは車を走らせながら考えた。
とバーナビーが出会ってからというもの、会うときは大概が交番にいるのを前提として適当な時間に交番へ行くか、あとは大体偶然か、というような状態だったのだ。
正直なところ、偶然が何度も起きるのをいいことに、それに甘えていたきらいもある。けれど、これからはそうもいかないだろうということは、バーナビーは例の一件で痛感している。
彼女は警察官で、自分はヒーロー。この輝かしくも物騒な街シュテルンビルトでは、いつ何が起きてもおかしくないのだし――現に彼女は事件に巻き込まれてしまった。

そして自分の気持ちを伝えるのも尻込みしていては後悔するだろうとも、バーナビーはそれ以降強く思っている。

「…どう言ったものかな」

呟いても、一人きりの車内で返事をする者はいない。
ふう、と少しだけ息を吐き出して、普段はあまり訪れないブロンズの街並みを走っていると、街灯の下でちょこんと佇んでいるの姿が見えた。
家の近くに着いたら電話するって言っておいたのにと、バーナビーは苦笑した。



#12



「なんか最近暑くなってきたね」

あんまり高そうなとこは気疲れしちゃうからやだな、というの希望で、シルバーにある個室付きのレストランにやってきた2人は、とりあえず退院祝いにと乾杯すると、料理は店に任せてのんびりと話し始めた。
とはいえは病み上がりなうえアルコールは得意ではなく、バーナビーも車を運転するので、2人の飲み物にアルコールはこれっぽっちも入っていないのだが。

「そうですね。本格的に夏が近付いてる気配がしますし」
「ついこの間まで春だと思ってたのになー…」

つい数ヶ月前、とバーナビーが初めて会ったときはまだ春だったというのに、気が付けば草木は生い茂り、青々とその葉を風に揺らしている。ただでさえ3週間病院にこもりっきりだったからしてみれば、時間の流れに取り残されたようにも感じられるのだろう。
春といえばさ、とが呟く。はい、とバーナビーが返事をして、今度は何を言い出す気なのかと、密かに身構えた。

「バニーちゃんに春は来ないの?」
「は?」

…身構えたものの、やはりバーナビーの予想の斜め上をいくにそう返さずにはいられない。

「何、言ってるんですか」
「あれ、そんな変な質問したかな、私」

どこかぎこちなく答えるバーナビーに、は怪訝そうな顔をしながらこてりと首を傾げた。
今そうやってる貴女に恋をしています、などと彼が言えるはずもなく、そう言う貴女こそどうなんです、と誤摩化すようにして問うてみる。
だいたい僕が気にかけて会いに行ってる女性なんて貴女くらいのものだということにも気付いてないのか、と半ば八つ当たりのようなことを思いながら、バーナビーはを見た。

「私? 私は……自分から断っちゃった」

好きだったよ、と言っていた彼の――ジュリアンと名乗った青年の後ろ姿が、バーナビーの脳裏に浮かぶ。
やはり彼はあの時、に想いを告げた後だったのだとバーナビーは確信した。

「…どうして、断ったんです?」

気付くと、口からそう出ていた。単なる興味か、それとも未来の自分があのようになってしまうのではないかという畏れからかは、彼自身ハッキリとはしない。
は一度だけ目を瞬かせて、目を伏せながら言った。

「きっと、困らないから」




比較的こざっぱりした返答の多い彼女は、稀にだがああして、核心に触れさせないようにすることがある。
が親の墓参りに行くために休むと言ったときにも、質問には答えているのに真実はまた別のところにあると思わせる言い回しをしていた。
しかしあの時とは違って、バーナビーは彼女との間に壁を作られているとは、どうにも感じなかった。それが結局何を意味するのかまでは辿り着けないが、不思議と嫌ではない。
加えてバーナビーが気付いたのは、以前に比べるとと話していても穏やかな心地でいられるということだった。好きだと思い、胸が苦しくならないわけではないのだが、どうも良い兆候にしか思えないのだ。理由は、わからないままだけれど。

あっという間に食事の時間も終わってしまって、バーナビーはまた慣れないブロンズの街を、車の助手席にを乗せて運転する。
は珍しく黙ったままぼんやりと外の景色を眺めていた。眠くなってしまったのだろうか。それはそれでに心を許せてもらえているのではないかとさえ思える。
バーナビーもその静けさに居心地の良さを覚えながら、黙々とハンドルを握り続けた。

やがて見覚えのある道に入って、近付く今日の別れに侘しさを味わわずにはいられない。
バーナビーはの家の程近くまで車を走らせ、路肩に寄せると不本意ながら車を止めた。

「……」
「……?」

まさか寝ているのかと、バーナビーは軽く覗き込むようにしてに視線をやる。
窓ガラスに映る彼女の目は開いているのに、何故か動く気配がなかった。
間があってから、おもむろにはシートベルトを外す。かちゃり、という音がそれほど広くない車内にやけに響いた。

「…あのさ」
「はい」

口を開いたものの、はバーナビーを見ようとはしないままだった。

「…私バニーちゃんに言わなきゃならないことがあって、」
「…はい」
「……ごめん、顔見て言いづらいからあんまこっち見ないで」

彼女に言われるがまま、バーナビーは彼女から目線をはずした。わざわざこうして言いたいこと、というのは何なのだろう。様子からして、ふざけた話ではないのは間違いない。
バーナビーの心の隅に、淡い期待が浮かんだ。そんなまさか。

「…私のヒーローはさ、両親が死んでから最初に事件に巻き込まれたときに助けられて以来、ずっとワイルドタイガーなの」

いつになくひっそりとしたの声が、バーナビーの耳に入ってくる。
彼女が過去を語るときの、どことなくおそるおそるといった、淡々としているように聞こえて不安の色が滲む声。

「今の仕事を目指したのだって、少しでもタイガーみたいに…虎徹さんみたいになれたら、って思ったからでさ」
「…そう、なんですか」
「…うん。ワイルドタイガーだけが、私のヒーローだった」

バーナビーも気付いていたことではあるが、が虎徹から受けた影響というものは、バーナビーにも、おそらく虎徹本人にも想像できないほど大きい。
バーナビー自身も虎徹に影響を受けた人物の一人であるが故に、それは簡単に予測できた。

「でも、今は違うの」

不意に出た否定の言葉に、バーナビーが思わずに顔を向ける。それでもはやや下を向いたまま、言葉を続けた。

「あの時、一番に駆けつけてくれた。生きててよかったって、いなくなったら困るって、言ってくれた」
「……、」

「私のヒーロー、もう一人いたんだ」

ゆっくりと、が顔を上げる。切なげに揺れる瞳が、バーナビーを捉えた。


「…ありがとう、バニーちゃん」


ふわりと微笑むに、バーナビーは目を奪われる。
けれどそれも束の間で、はすぐにまた顔を伏せると、「じゃあ私、これで」と慌てるように言って車のドアノブに手をかけた。「待っ、」このまま帰るつもりかと、バーナビーも慌てての手を掴む。の身体がびくりと揺れて、息を呑んだ音が伝わってきた。

「…僕も、貴女に言わなきゃならないことがある」

なに、聞こえるか聞こえないかという声で、が呟いた。
バーナビーが手を放そうものならすぐに出ていこうとせんばかりに、体勢を変えずドアノブもその手に握りしめたままだ。

「…僕は今まで、貴女に会うとき、偶然だとか、いつもみたいにあそこにいてくれるだろうって、そういう状況に甘えてきました」
「……」
「でもそんなのはいつまでも続かないって、いつ何が起こるかなんて誰にもわからないって、あの事件の後、ようやく気付いたんです」

手のひらが熱い。バーナビーにはそれが自分の熱なのか、それとも掴んだの手の熱なのか、あるいはその両方なのかもわからなかった。

「…僕には、貴女が必要なんです、
「っ…」

名前を呼ぶと、はおずおずと振り向いて、バーナビーを見上げる。
潤んだ瞳が、赤く色づいた頬が、わずかな息づかいさえもが、彼の最後に続く言葉を待っていた。






「――貴女が好きだ」