人にあまり話したくない、できれば隠しておきたいようなことは、程度は違えど、誰にだって1つや2つはある。恥ずかしい過去の失敗の話であるかもしれない。心が壊れてしまうほどの、辛い出来事であるかもしれない。それは例えば虎徹にとっての妻が亡くなった話であり、バーナビーにとっての両親が殺された話のような、触れられたくない、自分の深淵。

――今日、命日なんだ。…昔、事件でね。

あの時のの言葉を思い出す。
よく笑う彼女の、明るい笑い声からは想像もできないほど、悲しそうな、寂しそうな声色だった。
諦めたような、それでいて泣きそうな、けれどなお笑おうとする彼女の顔が、今でもバーナビーの脳裏に焼き付いて離れない。

あの後、詳しいことはは何も話さなかった。
そもそも彼女が全てをバーナビーに話す義務はなかったし、バーナビーもまた、何も訊かなかったのだ。彼がそうであるように、親が亡くなったときの記憶を掘り返すのは、気持ちいいものであるはずがない。

彼女が抱えていた秘密を、闇とも言えるものを、自分が知ってしまってよかったのかと、バーナビーは自問する。が、答えは見えない。
次に会ったときどんな顔をすれば良いのか、何故が自分に話す気になったのか。
疑問や迷いが、バーナビーの中で次々と浮かんでは消える。
これでは結局、彼女の過去が判明する前と同じだった。

ふと、バーナビーは携帯を開いて通話履歴を見る。
画面ではたった少しの文字列でしか残らないこの1本の電話が、この先の自分との関係を大きく変えていくであろうことだけは、今の時点でのバーナビーにもわかった。


#09


バーナビーがぐるぐると頭の中で悩みを巡らせているうちに、数日が経った。
確固たる答えは未だ出ないが、彼女のために自分はどうするべきか、そして自分はどうしたいか。なんとなくわかりそうな気がしている。
まず一つ、彼女に次に会うときには、できる限り今までと同じよう彼女に接するほうがいいということ。
悲しい過去があるのがわかったからといって、慰められることも気を遣われることも、彼女はきっと望んでいないと、…自分ならばそう思う、と考えてのことだった。
似たような経験があるからこそ、の心に寄り添えればいいと、バーナビーは願っている。
そして何故がバーナビーに過去を打ち明けたのか、これは流石に本人に訊かないとわからない。しかしそれを訊くのは、今ではないだろうとバーナビーは思う。いつか彼女がまたバーナビーと過去を共有してもいいと思ったとき、そのときまで、この疑問はバーナビーの胸の内にしまっておくべきだった。


1日の仕事を終え、バーナビーは会社を出る。事業部のフロアから出るときに、虎徹がロックバイソンと飯食いに行くから、とバーナビーを誘ったが、どうにも今はそういう気分になれなかった。また次の機会に誘ってくださいと丁重に断ると、虎徹はいきなり何を思ったか「そういやお前、とか誘ったりしねーの?」などどバーナビーに言ってきた。
その場は虎徹にロックバイソンから電話がかかってきたことで、そのことについて深くは掘り下げなかったが。
虎徹のことだ、単にそのとき思いついたから、くらいの気持ちだったのだろう。考えすぎるだけ無駄だと、バーナビーは割り切ったつもりだったが、を食事に誘うというのは彼にとってなかなかに魅力的な発案であった。
とはいえあんな話の後だし、なんてことを考えながら、すっかり暗くなった空を眺めて帰路につく。
最近は、日中長袖では汗ばむほどに暖かくなってきたが夜はまだ涼しい。
気付けばバーナビーがと出会ってからもう2月が経とうとしていて、そろそろ季節も変わろうとしている頃だった。

家路を急ぐ人々が多いはずの時間帯ではあったが、バーナビーが目立ってしまうからという理由で大通りをなるべく避けて歩いているため、道行く人はそこまで多くない。
そんな中、物思いに耽りながら歩くバーナビーの背に、チリン、と自転車のベルが1度だけ鳴らされた。
次に聞こえた軽いブレーキ音に振り向くと、普段は交番の横に停められている簡素な自転車に乗った、の姿がそこにある。
まさかこんなところで、こんなタイミングで会うと思わなかったバーナビーは、目を丸くして一瞬固まった。

「バニーちゃん」
「…、」

でどこかきょとんとした様子で驚くバーナビーの顔を見つめている。 彼女のことばかり考えていたバーナビーの前に現れた本物のは、特に深刻な顔をするでもなく以前となんら変わりない雰囲気のように見えた。それを受けてバーナビーも、決めていたように今までと同じ態度であれるよう努める。
あまりに突然のことでバーナビーも少し戸惑ったものの、こうしてに会えたことは単純に嬉しいことであった。

「偶然。仕事帰り?」
「ええ、貴女は…」
「私はパトロール中。いつもこの辺通るけど、会うのは初めてだね」

にこ、と笑いかけてくるに、この対応で間違っていなかったのだとバーナビーは安堵する。やはり困っている顔よりも、笑顔の彼女が好きだな、と率直に思った。

「そうですね。パトロールはいつもこの時間に?」
「んー、仕事の具合にもよるかなあ。だからほんとに今日はラッキーって感じ」

ふふ、とまた彼女はバーナビーの目を見て笑う。
こうして笑うのに、彼女は一体どれだけのことを乗り越えてきたのだろうかと、バーナビーはふいに思った。
バーナビーですら両親の死に一段落ついたのがつい最近だというのに、自分より年下の女性であるがどれだけのものを抱えてここまで生きてきたのか。笑顔の裏に、あの泣き出してしまいそうな切ない顔を隠して。

「この後もまだ仕事、ですよね」
「うん、この間休んじゃったし、その分も働かないと」
「…無理はしすぎないでください」

握り拳を作って意気込むに向かって、バーナビーは眉を下げながら微笑んだ。
この間、のフレーズが、あの時の会話は夢ではなく紛れもない現実だと暗に示しているような気がして、バーナビーに再度の悲しげな顔を想起させる。
なんとか力になりたいと思うのに、今の自分ではまだ彼女と心の距離があるように感じてもどかしい。もっと彼女の近くに、そう思ったとき、帰り際にかけられた虎徹の言葉が浮かんだ。
――誘ったりしねーの?

「ありがと。じゃあまた今度、」
、」

自転車のペダルに足を掛け直すの名を呼んで引き止める。
はん?と小さく言って、バーナビーの方に再び顔を向けた。

「…その、よければ今度食事でも行きませんか」

ぱち。のまっすぐな目がバーナビーを捉えたまま大きく瞬く。
言ってみたはいいものの、突然すぎたのではないかと考えて、バーナビーはひとり気まずさを持て余した。

「…それは、2人でってこと?」
「…はい」

バーナビーの意図をはかるように彼女の両の目はじっと彼を見ている。バーナビーは自分が何を考えているか、その奥底までも覗き込まれているような心地だった。目をそらしてしまいたいくらいの静寂が、2人の間に落ちる。
その一方で、今から目を離せば断られるような予感がバーナビーにはあって、ある種の居心地の悪さとうるさく鳴る自身の心臓の音を感じながら、ただの返事を待った。
やがてが、一瞬だけ目を伏せる。はその視線をすぐバーナビーに戻すと、彼を見てにっこり笑った。

「うん、いいよ」
「…本当ですか」

バーナビーはほっと息をつくことも忘れて、やや間の抜けた顔で言葉を返す。
それをよそには顎に人差し指を当てながら、考えるように小首を傾げて上を見た。

「うん。あ、日にちはちょっと今は決められないけど」
「構いません」
「じゃあ次会うときまでに、予定確認しとく」
「ありがとうございます」

そう言ってはその足で自転車のペダルを踏み直す。そろそろ彼女も仕事に戻らなければいけない頃合いらしかった。
漕ぎ出す直前、はいたずら好きの子どものように歯を見せながらはにかんで、上目遣いでバーナビーを見る。

「…虎徹さんにはナイショね?」

どきり。
の返事を待つときと、また違った風にバーナビーの鼓動が鳴った。
またね、と手をひらりと振って自転車で走り出す彼女に、バーナビーは手を挙げ返すので精一杯で、彼女の姿が見えなくなってからようやく、ずっと詰めていた息を吐き出す。

「、……はあ…」

駄目だ、と思った。
彼女のことを考える度に、実際に会って話す度に、バーナビーは自分が自分でいられなくなるのを何度も感じる。
どうしていいかわからなくなるほど、胸が苦しくなるのだ。
好きだと思うと。そして、彼女の過去を思うと。

バーナビーはが去って行った方を静かに見つめた。
まだ夜も始めの頃だというのに、シュテルンビルトにしてはやけに音のない夜だった。