「…なんですかこれ」

赤いラインで縁取られた、ピンク色のウサギが跳ね回っている絵があしらわれたマグカップを見て、バーナビーは呟いた。これが一体何であるかは彼にも心当たりはある。けれども素直にそれを認めたくはないのも、また事実であった。なんだって、いかにも女性が好きそうな可愛らしいデザインのものを。

「言ったじゃん、バニーちゃん用のマグカップ!」
「…はあ、」

ああやっぱり、という思いと共に、バーナビーは隠しもせずに大きく息を吐いた。

「いいですか、何度も言うようですけど、」
「『僕はバニーじゃない、バーナビーです』?」
「たっはは、バニーお前セリフ読まれてんぞ」
「…虎徹さんは黙っててください。というかそもそもあなたが元凶でしょう!」

ぎゃいぎゃいと騒ぐ声が交番内に響く。元々常連だった虎徹に加えて、専用のマグカップを用意され、常連の仲間入りを果たしたバーナビーがと出会ってから、気付けばひと月が経とうとしていた。
お互いになんとなく性格も掴めてきたところだ、がこのマグカップで譲る気はないことも、ここは自分が折れて受け入れるしかないことも、バーナビーはもうなんとなくわかっている。
真新しいマグカップにつがれたハーブティーを口にして、バーナビーはまた溜息をついた。

「あ、また溜息。ついでに顔がこわいよバニーちゃん」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「んー、私?」

わざとらしく考えるそぶりをして笑いながら視線を投げかけてくるあたり、これはからかわれているのだな、とバーナビーは確信する。
女性で、しかも年下のにペースを乱されているのはどうにも面白くないが、こうした態度で接してくるのはヒーロー関係者以外では彼女くらいで、バーナビーとしても世間でのイメージの「バーナビー」を演じないで済むという点においては気が楽だった。

本来のヒーロー業に加え、今ではもはや超人気タレントと言っていい量の取材やTV出演をこなしているバーナビーは、シュテルンビルトのどこを歩いても「バーナビーだ」とヒーローとしてのバーナビーであることを求められる。仕事だと割り切り笑顔を振りまくのは苦ではないが、そうそう気を休めてもいられない。
しかしは市民のヒーローとしてのバーナビーを求めてこないどころか、バーナビーを困らせたい節があるようにすら思える。
それはそれで彼にとっては不本意ではあったが、それでも仕事の合間を縫って彼女のもとを訪れているあたり、結局のところバーナビーがとの時間をどう思っているかは明らかであった。

どんなに忙しくとも、何かしらの楽しみと言えるものが先に待っていれば頑張れるのが人というもので、バーナビーも例に漏れずに会うことを密かに楽しみとしている。ここでと過ごす時間は1時間にも満たない僅かな時間ではあるが、バーナビーにとって有意義な時間であることは間違いなかった。
この日もスケジュールに追われていたバーナビーは、この後すぐに番組の収録があったなと考えて、思わず小さく息を漏らす。

「また!」
「え? あ、いや今のは、」
「あんま溜息ばっかついてると幸せが逃げっぞ〜?」

と虎徹は二人してしょうがないなと言いたげな顔をしてバーナビーを見た。
ただ溜息の理由をバーナビーが素直に二人に言えるわけもなく、彼はお茶を飲んで押し黙る以外の手段をとれない。
は次に眉を下げると、先程の鋭い声色とは打って変わって心許ない声でバーナビーに話しかけた。

「でもバニーちゃん、最近すごい忙しそうだし、お疲れなんじゃない?」
「あーそうかもなー、今日もこの後収録だろ?」
「はい、13時半から」
「うっそもうすぐじゃん、こんなとこでのんびりしてちゃ駄目だよ」

3人がそれぞれに時間を確認し、は相変わらず心配そうな顔でバーナビーを急かすが、バーナビーとしてはどうも腰が重い。
偶然会った時を除くと、に会えるのは大抵週に1度といったところだった。…1週間は会えないのかと、また溜息をつきそうになったが、それを誤魔化すようにバーナビーはテーブルに手をつき立ち上がる。

「…すみません、じゃあ僕はお先に失礼します。ごちそうさまでした」
「うん、頑張って。あんま無理しちゃダメだよ?」

自分としてもあまり無理はしたくないところだが、実際バーナビーのスケジュールを決めているのはほとんど上だ。最近ますます取材やら撮影やらが増えている気がするし、もしかしたら来週会うことすらも厳しいのではないかという嫌な予感がバーナビーの脳裏をかすめる。
小さく手を振るに笑みを返し、虎徹の「おう、また後でな」という言葉を背に受けながら、バーナビーは交番を後にした。


#06


日々事件や犯罪者と闘うバーナビーたちヒーローに、逮捕権というものは存在しない。あくまで犯人を確保し、警察に引き渡すまでが彼らにできることだ。従って、ヒーローたちが出動する事件が起きた場合、必ず警察も出動している。というより本来ヒーローがしていることは警察が行うことであるのだが、ある種の制約のようなものがヒーロー側と警察側の間にあり、警察の活躍が日の目を見ない形になってしまっているのもまた事実であった。故に、ヒーローを良く思わない警察関係者は少なくない。むしろあそこまでヒーローに好意的なのほうが珍しいくらいで、現場で警察と顔を合わせても、どこか緊張した空気になるのが普通だった。
互いに街の平和を守り、市民の安全を願い行動しているというのに、両者の間にはまだそれなりに隔たりがある。

『おおーっとここでバーナビーが犯人確保!!今シーズンのポイントを着々と伸ばしています!!』

この日事件が起きたのは珍しくゴールドステージの銀行であった。
ヒーローたちも現場へと赴き、警察も交通規制のために多数出動している。
バーナビー並びに他のヒーロー達はショーアップされながら今日も犯人を捕え、警察へと犯人達の身柄を引き渡した。何度もしていることではあるが、彼ら警察とはやはり事務的な受け答え以外なく、淡々とした印象をバーナビーは受ける。
同じ警察でもであれば賞賛の言葉と共にきっと笑顔を向けてくれるだろうに――そんなことを考えて、バーナビーはハッとした。姿を見かけたならばまだしも、現場でこのようなことを考えるのはあまり褒められたことではないと自分自身を叱咤する。
事件が一段落したことで、バーナビーの周囲にカメラとマイクが複数寄ってきた。
それらに笑顔を向けてインタビューを受け、ヒーロー「バーナビー・ブルックスJr.」を演じきる。
取材陣が満足し、礼を言いながらバーナビーのもとを離れ、バーナビーもトランスポーターに戻ろうとしたときだった。

「(…あれ、)」

数々いる警察官の中に、ついさっき思い描いた、もはや見慣れた彼女の姿を見つける。
まさかと思いながらも、確信してやまない心は、同時にこうして偶然出会う確率が高い自分の幸運さを喜んでいた。
彼女の職業からいって、この場所で見かけるのは当然といえば当然なのだが、実際現場で会うのは初めてでバーナビーも僅かに面食らってしまう。

「…?」

バーナビーが働くの後姿を見つめ、無意識にその名を口にした。がその声に気付いたのか、それとも視線に気付いたかは定かではない。そもそもバーナビーとの間には少なくとも10mは距離があって、ぽつりと呟いたバーナビーの声は事件後の喧噪に紛れて聴こえるはずがなかった。
けれど何かを感じたらしいが彼のほうを振り返って、バーナビーがいることを視認した。

瞬間、ぱっと笑顔になっただったが、声をかけるには距離があったし、ヒーロースーツを纏ったままのバーナビーは、ある程度はまだ「市民のヒーロー」を演じ続けなければならなかった。
せっかくこうして偶然会えたのに、いつものようにいかないのが歯痒くて仕方ない。
するとが右手を上げて、――わざとらしく真面目な顔をして、バーナビーに向かって敬礼をした。
一瞬だけ目を丸くしてから、バーナビーは彼女らしい、と呆れまじりに笑い、に倣って敬礼を返す。破顔したを見て、思わず胸が熱くなったのを、バーナビーは確かに感じた。

「バニー?」後ろからフェイスマスクを上げた虎徹が話しかけてくる。その声に振り向き、バーナビーがのことを伝えると、身を乗り出して虎徹もへと視線を向けた。
バーナビーも再度を見るが、ほんの少しの間に変わった光景に思わず固まる。

知らぬうちに彼女の隣にもう1人、見慣れない人物が現れていた。

「っと、取り込み中みてーだな」

バーナビーと同じ年頃であろうか、まだ若く見える警察官の青年が、に楽しげに話しかけている。元々知り合いなのか、のほうも笑顔で青年に言葉を返していた。
はたから見ても、ただの知り合いよりも親しい仲に見える。
の数少ない同期の人間、友人と呼ぶべき――いやもしかしたらそれよりも、深い間柄かもバーナビーには判別がつかなかった。けれどそんな彼がひとつわかったことは、自分の周りが、何も変わったことなどないのに寒くなったように感じられたことだった。

に自分の知らない知り合いがいるのは、至極当たり前のことだ。自分にとってのヒーロー仲間や会社の人々がいるように、にだって同じような存在は何人もいるはずなのに。頭では理解しているつもりなのに、どうしてこんな。

ふと、と話している青年の目がバーナビーを捉える。
決して好意的ではないその目つきに、バーナビーも思わず目を細めたが、青年はすぐにまたに笑顔を向けて、バーナビーなど見ていなかったかのように話し出した。

「おーいバニー、行くぞ」
「…はい、」

虎徹の呼ぶ声にしぶしぶ従って、バーナビーはなお談笑し続ける2人に背を向けた。




(………面白くない、)