「始める」ことには勇気がいる。「続ける」ことには努力がいる。
何事においてもそうだということは、誰しもが成長するにつれてなんとなしに気付くことのひとつである。 たとえ自覚はなくとも、知らず知らずのうちに勇気と努力を繰り返しつかって、人は日々を生きていくのだ。
そうしたことに気付けるのは、大抵においてそれらをつかってある程度たったころだったりする。が今そうであるように。

彼女が今の仕事を「始めて」から、およそ1年と2ヶ月が過ぎた。
警察官という仕事は、会社勤めの人たちのように平日9時から5時までの勤務、というように規則性のあるものではない。 交番勤務の今は、仕事は常に当番制、当直の日は、朝9時に出勤して退勤を向かえるのは翌朝およそ24時間後と交番で仕事をしつつ夜を明かさなくてはならないし、 土日祝日だから休みということももちろんない。絵に描いたような不規則さである。
けれどこれは自分で選び歩んできた道であるし、「続けて」いくことに不満だとか苦しさだとかを、たいして抱えてこなかったのだ。あることが「始まる」までは。

その"あること"とは、今やあのキングオブヒーローを上回るポイント数を獲得し新たな王の座についた人気ヒーロー、バーナビー・ブルックスJr.との交際である。
彼とが交際を「始めた」のは遡って半年にも満たない夏の初めであったのだが、彼と彼女には共通点も多く、過ごした時間に対して他人が思うよりも絆は深い。 と、は思っている。そうでありたい、というほうが正しいかもしれないが。
彼がヒーローとして世に出たのも、と同じ時期だった。
両親を事件で亡くしているのも、同じ。
全く別の道を歩んできたにも関わらず、お互いの心情をやけに感じ取ることができた2人は、あのやけに鈍い虎徹にも「お似合いだ」と称されるようなカップルだった。

がバーナビーに救ってもらったように、自身も彼の心に寄り添い、支えてあげられる存在にちゃんとなりたいと、彼女は常々思っている。 しかしもバーナビーも、それぞれ不規則な仕事に就いている。バーナビーは勤務形態的には会社員扱いとはいえ、事件はいつ舞い込んでくるとも知れないし、 警察官であるも、元々の不規則な勤務に加え事件があればそちらにあたらなくてはならなかった。
人を寄り添い理解するために必要なのが時間だけとはは思わないが、ごく一般的な恋人同士という基準からすれば、 彼の側にいられる時間が今のままでは少なすぎるという思いを、ここしばらく感じていたのだ。

そんな矢先にの前に差し出されたのが、他でもない彼からの同居の提案である。
恋人であることを公言することすらできないが故に不安さえ覚えていたに示された、 2人の関係をこの先も「続けて」いきたいという最大限の意思表示。泣きたくなるほど嬉しかった、あの瞬間。

2人の新たな「始まり」が、滲んだ視界の先に見えた気がした。



♭17



すん、と鼻から息を吸い込むと、香ばしい匂いが肺のほうまで広がっていく心地がする。
インスタントのわりに美味しいと上司にも評判のこのコーヒーは、つい最近買ってみたものだった。 (とはいえの上司はガムシロップを複数入れたがるので、果たして味の違いが本当に分かっているのかは定かではないが。)
はピンクの兎が跳ねているマグカップと、水面に浮かぶ和の花があしらわれたマグカップをそれぞれ片手に持ち客人のもとへとそれを運ぶ。

「はい、バニーちゃん」
「ありがとうございます」

週に一度、彼の仕事の具合によってはいつなくなるともわからない、交番で彼の訪れを待つ日がはとても好きだ。
元々、を尋ねてたびたびやって来ていたのは彼ではない。
けれどそれがいつしか変わって、バーナビーとのんびりと他愛もない話をして過ごす時間がはとても好きになった。 忙しい彼のひとときをほんの少しでも共有できることが、バーナビーの恋人であるにとっては大きいことだった。
彼とよく一緒に来ていた、というか本来のの最初の客人で、彼の相棒である虎徹は、今はシュテルンビルトにはいないのだと先日彼から聞かされたばかりだ。

「虎徹さん、まだしばらく帰ってこないのかな」
「………家族サービスに勤しんでるんじゃないですか、きっと」
「…なぁに今の間?」
「別に」

短くぶっきらぼうにそう言うと、バーナビーはさっきが差し出したカップに口をつけた。
(…妬いてるな、これはたぶん)
付き合い続けていくうちに随分とわかるようになった彼の心中を察しながら、は何かに気付いた様子の彼を見た。 喉を通ったものの僅かな違いを感じたかなと思い彼が口を開くのを待ってみる。
あれ、と小さく前置きしてから彼の澄んだグリーンがこちらを見た。

「コーヒー、変えました?」
「うん、まあね」

ふふ、と笑いながら答えると、バーナビーはどこかきょとんとした顔つきになる。
テレビではあまり見せることのない、そのあどけない表情が可愛いと感じていることは、格好よくいたいであろう彼には黙っておこうとは誓った。 日によっては、彼の困る顔見たさにあえて言うこともあるけれど、今日は言わなくてもいいかな、という気分だった。

「なにかいいことでもありましたか?」
「ううん、別に」
「なんだか嬉しそうだ」
「そう?」

がバーナビーの心中を察したように、バーナビーもまた、の上機嫌を感じとっているようである。特に、これといって特別なことがあったわけではない。
新しくしたコーヒーが美味しい、彼が買ってきてくれた近くのベーカリーのフレンチトーストが美味しい、 バーナビーがなんとなく何を思っているか当たった、それから、それから。
何気ない日々のほんの小さな喜びを、言葉にすることはなくともこうして共有することが、にとっては何よりも幸せなことであった。

「今日この後は?」
「トレーニングセンターに行くだけなので、少しゆっくりしていけます」
「そっか」
は?」
「今日は当直」

そうして一緒に過ごせる時間を擦り合わせて、次の予定を決める楽しみがあるのも幸せなのだと、は確かに感じていた。




(…でも、そうか。一緒に暮らし始めたら、それも減るのかな)

日付も変わった朝方、仕事を終えて家に入ったときにふとはそう思った。
この家で暮らし始めたのはちょうど警察官になった頃だし、それより前は2年ほど、警察学校の寮の一人部屋で暮らしていた。 ようするに、しばらくは一人で過ごす生活スタイルだったのだ。
家に他の人がいるという経験を長いことしてこなかったものだから、昔はしていたはずなのに、どういう心地だったのかもうまく思い出せない。 それに、学生時代にやるようなお泊まりだとかいう、1日2日の話ではない。続いていくのだ。 この先、ずっと。それがたとえ当人たちの意志に左右されるとしても、短期間で終わる話ではない。

「ど…どうなるんだろう」

呟いてみても、今この家には返す人間が存在しない。
きっと彼がいれば、何がですか、と訝しんで尋ねてくることだろう。それが当たり前になる。
はここには居ない恋人の姿を家の中に思い描いて、複雑に絡まってしまった糸の塊も、同時に心に現れた。 嬉しさ、不安、未知のものへの、恐ろしさに似たなにか。そういったものが全部、急にかたちとなって喉の奥へ詰まってしまったみたいだ。

「……寝よう…」

一度寝てみれば、この塊もなんとか胃の腑へ収めて、消化することができるかもしれない。
ひどく単純な解決方法ではあったが、仕事終わりの疲れた頭でほかに妙案が浮かぶとも、は思えなかった。
部屋着へと着替える間、はなんとなしにテレビをつけてみた。さすがに朝では、ヒーローたちもそこには現れない。 ニュースをBGMがわりに早々に寝る支度を済ませて、ごろりとベッドに転がる。
横になってもつかえた塊のせいで息苦しいかもという懸念をよそに、当直明けの寝不足からか、すぐにまぶたがゆっくりと下がってきた。 淡々と喋るニュースキャスターの声も、今は心地よい子守唄のように聞こえる。テレビを消さなければと思いつつも、 リモコンを離れたところに置いてしまったため、取りにいくのもなんだか億劫で、なんとか目を開けて恨めしげにリモコンを睨みつけて、再び目を閉じた。 今日の星座占い、とテレビが喋るのも、どこか遠くの出来事のようにすら感じられる。
電気代、と戒めるように呟いたものの、の意識はそのまま沈んだ。



『最下位はさそり座のあなた!衝撃の事実が発覚しちゃいそう!ラッキーカラーは…』




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