やばい。

最寄り駅を降り、絶え間なく地面を叩く雨が視界に入ったとき思わず出た言葉だった。
晴雨兼用のお気に入りの折り畳み傘は常に鞄に忍ばせているため、自らが濡れる心配から出た言葉ではない。
が、今朝陽の光を見て鼻歌を歌いながら干してきた洗濯物たちはこの雨の犠牲になっているであろうことは間違いなかった。おのれ天気予報士め、今日は降らないって朝言ってたじゃないか。
恨みがましく胸の内で呟いてみても状況が変わるわけではないのでこころを切り替えるほうが建設的だろう。
洋服たちを少しでも早く冷たい雨粒から救出するべく駆ける覚悟を決め、中学時代の同級生の二つ名を思い浮かべて紺地の傘を広げた。



中学最後の一年を過ごしたあの地で出会った人々のことを、最近はよく思い出す。
その理由については明らかで、単に先日行われた同窓会で皆に再会したからに他ならないのだが、きっといないであろうと踏んでいた彼に会ってしまったのが大きな要因のひとつといえる。
「俺、今東京におっとよ」
学校のあった大阪で開かれた同窓会に、わざわざ新幹線を使ってまで行ったのは、たった一年という期間の中で得た想いが忘れられないものばかりだったから、だと思う。
そのひとつは在学中花開くこともなければ散ることもなく、けれど確かに当時の自分にとっては一番大切な想いだった。 中学生3年生の春、熊本から転校してきた彼と、東京から転校してきた私。
夕暮れに染まる学校の裏山。そこで交わされた言葉の数々。秘めるに留まった想い。
あれから数年経った今、再び会った私たちの間にある想いは、また静かにきらきらと光りはじめた。



意を決して雨の中を駆け出したはいいが、大学に入って以降運動量がめっきり減ってしまった自分は、スピードスターには程遠い。
走り出しからはやや減速した足の動きに合わせて、地に落ち着いた雨水が跳ね、ときたま靴下までもを濡らした。
見えてきた住まいに向かい、あと一息と己を鼓舞し前へ進む。
大学生になるのと同時に借りたアパートは、駅からやや距離があることだけが難点だった。
やっとの思いで建物に着き、ふるふると傘を振って畳みながら、自分の部屋がある2階への階段を気持ち駆け足で上る。
濡れた傘片手にドアに辿り着く以前に鍵を出そうと鞄を探りながらフロアに足をつけ、部屋の入り口を見据えたところでぎょっとした。
いる。
連絡なく自分の部屋の前で座り込んでいることには最近あまり驚かなくなったが、この日ばかりはそうもいかなかった。
雨から身を守るすべを持っていなかったであろう件の人が、ずぶ濡れで自宅の前にいたのだから。

「千歳くん、」

走った後の整わない息で名を呼ぶと、濡れて平素よりいくらかかさが減ったように見える頭が揺れた。
ぽたりぽたりと毛先から滴り落ちる水をよそに、彼は何時もと変わらぬへらりとした笑みとともに私を振り仰ぐ。

「おかえり」
「っおかえりじゃないよ!」

扉のすぐそばでしゃがみ込んでいる千歳くんを横目に、急いで鍵を取り出しかつてない速さで扉を開けた。
私が投げつけた言葉の勢いに目を丸くしていた千歳くんに、「早く入って」と手を差し出せば大きな湿った手でゆるく握られる。
案の定冷えていた手に小言のひとつでも続けて投げてやりたい気に駆られたが、それよりも部屋に連れ込むことを優先させたほうがいいだろう。
ぐっと引っ張ると、ほとんど自分の力だけで立ち上がった千歳くんの足元でからりと下駄が鳴った。

部屋に入り繋いだままの手を引いて千歳くんを脱衣所に押し込むと、眉を下げた千歳くんがつと握る手に力を込めた。、呼び止めるかすかな声が耳に届く。

「怒っとる?」

自分より頭ひとつ分以上高い位置にある両の瞳が不安げに揺れている。
雨の中に捨てられた子犬よろしく心許なげな表情に、どこか勢いを削がれた。
別に、怒っているわけじゃない。千歳くんが神出鬼没なのはいつものことだし、傘を持ち歩くタイプなどではないことなど百も承知だし、部屋の前で座り込むことだって、もう慣れてきてしまったことだ。

「心配してるの」

私より遥かに身体が丈夫なことだってもちろん承知はしているが、雨に濡れたまま、あとは肌寒くなる一方のこの時期に外で座り込んでいて風邪を引かぬ保証はどこにもない。
心配、千歳くんが繰り返す。
あの頃は、同じ中学に通っていたから把握のしようもあったけれど、今となってはお互い環境は全く違うし、どちらかが関心をなくして「会わない」という選択肢をえらべば途切れてしまうような関係なのだ。
義務教育という制度の囲いから外に出た私たちは、自由を得た代わりに半強制的な結びつきを失ってしまった。
それでも私は千歳くんにいつも健やかであってほしいし、つらいことがあまり起きてなければいいなと心のうちで思っている。

「いいから、これ以上身体が冷えないうちにシャワー浴びて。タオルと着替えは後で置いておくから」

誤魔化すようにあれこれ指示をし、握っていた手をそっと離すと、湿ったところに空気が当たって心なしか冷ややかだった。
どこか名残惜しげに宙に浮いた千歳くんの手は見なかったことにして、踵を返し脱衣所の扉を閉める。
扉を背にふう、と一息ついたところで自分が駅から走ってまで帰ってきたこととその理由を思い出した。
洗濯物。
頭の中にぱっと浮かんだ3文字が崩れるように消える。もう手遅れだ。
明日は休みだし、洗い直そう。どうせ千歳くんの服も洗わないといけないし。
そう結論付けしたものの、二度手間だったと悔やむ気持ちはすぐに捨てられず、長い溜息を吐きながら水分を含んで重くなった洗濯物を取り込む。
扉を開ける前にシャワーの音で千歳くんが浴室に入ったことを確認してから、引き戸を開けた。
なるべく浴室の扉を見ないようにし、洗濯機にどさりと洗い直す服を入れる。ついでに自分の濡れていた靴下もぽいと投げ入れて素足になると、さすがにフローリングが肌寒い。
慌てて連れ込んだがゆえに脱ぎ散らかしたままの靴を整えに玄関に向かうついでに、鍵を閉め折り畳み傘を広げて干しておいた。
相変わらず、千歳くんの下駄は異様なまでに重い。なのに彼が履くと普通の下駄と同じようにからからと軽い音で鳴るのだから不思議なものである。
自分の靴と並べてみると大きさの違いも一目瞭然で、彼の規格外っぷりを伺わせた。
中学3年の頃から変わらずあの大きさであるのだから、サイズに関しては色々苦労している様子だった。
再会した後、私もその煽りを受けたクチで、自分の服は当然のことながらたまに泊まっていく弟の服でもかなり小さいため、先日わざわざ千歳くん専用の部屋着を買ったばかりである。
タンスの奥にしまい込んだそれを含めた着替え一式を引っ張り出し、予備のバスタオルと重ねて脱衣所に置いておいた。


さて夕飯はどうしようか、来訪者があるつもりでいなかったから特段買い物もしていないが、また雨の中を出るのは億劫だなと冷蔵庫の中身とにらめっこしていた矢先、がらりと戸の開く音がした。
風呂上り特有の清々しい空気をまとった千歳くんは、きょろきょろと少し辺りを見回して、キッチンにいる私の姿を見つけて笑う。

「さっぱりしたばい。ありがと」

本人はいかにも満足げににこにこしているが、私はというとあることに気付いてつい眉根を寄せた。
雨に濡れていた先程と変わらず、あるいはそれよりも髪先から雫が落ちている。
首元にひっかけたタオルがそれを受け止めてはいるものの、見過ごせない濡れっぷりだ。

「なんね、そぎゃん顔して」

訝しげな顔をして千歳くんが問う。
髪。短く返せば、合点がいった様子でああ、と言った千歳くんはタオルで毛先を握ってみせた。

「面倒たい」
「風邪ひくよ」
「…心配?」

試すようにちょっと前の私の言葉を引き合いに出した千歳くんは、私の目の前まで来てそっと私の手を掬う。
千歳くんの手は湯に温められたおかげか私の濡れた洗濯物に触ってやや冷たくなった手にぬくい温度を伝えてくる。
軽く握り込まれた指の体温がじわじわと上がってくるのを感じながら、こちらを覗きこむ千歳くんの目を見た。

「うん、そう」
「…なして?」

何故って、それは――



中学生3年生の春、熊本から転校してきた千歳くんと、東京から転校してきた私。
ひとりぼっち同士のクラスも別の私たちが、偶然出会ったあの日。
記憶の中の沈む夕日が黄金色に眩しかったのは、私がその瞬間を輝いていたと認識していていたいが故なのかもしれない。
今よりもいくらか夢見がちだった数年前の私は、きっと運命の出会いというものがあるとするならこのことを言うのかもしれないとさえ思いもしたが、やがて進む道が分かれて以降ぱたりと途絶えた縁にそれが勘違いだったのだと気付いた。
それでも捨てられぬ淡く光る想いは、枯れぬよう加工された半分つくりものの花と似ている。
離れてもふと夢に見る光景の中の彼が切なげに笑って、私の名を呼びこころを離さない。
私も名を呼び返したい、そう思うところで、いつも夢は途切れる。



「ちとせくん、」

発した声が思いの外掠れた。
今目の前にいる彼は金色の太陽もなにも背負っていないけれど、私の目にはやはりにぶく煌めいてそこにある。
ベッドに沈んだ自分の身体は思うように動いてくれない。
ぼんやりと霞む視界に夢か現かも判別がつかず、思考も霧の中のごとくおぼろげだった。

あの頃ついぞ言えなかった想い。
夢の中でさえ伝えられなかった言葉。
今このときが夢であろうと現であろうと、今ならば口にしても許されるだろうと喉の奥を震わせる。

「すき」

やっぱり声はみっともなく掠れて、少しだけ口に出したことを後悔した。
千歳くんはぴくりと身体をこわばらせると、冷える様子のない手をゆっくり伸ばし私の髪をやさしく梳く。
あたたかで心地よい感覚にまどろんでいく思考のなか、どこか遠くに千歳くんの声がした。
好いとう。

ああやっぱり、これは夢の中なのかもしれない。
私が千歳くんに好きと言って、千歳くんが好きだと返してくれる、都合のいい夢。
目が覚めてしまったら私の言葉も千歳くんの言葉も、もしかしたら千歳くんそのものだって、そこにいるとは限らない。
髪を梳く手の熱も夢なのかもしれないと思うと妙に胸が締め付けられて、離れていかないようにと手を伸ばす。
力の入らない手では触れるにとどまって、やがて大きな千歳くんのそれに握りしめられた。
もどかしく指を組むように握り直された手の感触だけがやけに鮮明で、千歳くんの存在を伝えてくる。



呼ばれた覚えのない名前の響きに、現実である認識はますます遠ざかった。
千歳くん。
もはや音にならぬ声は、伝わっているかすら危うい。
そのまま暗転していく世界に、身を委ねるほかなす術はなかった。



目が覚めたのは、明らかに掛け布団ではない質量が自分の腰あたりに乗りかかってきたからだった。
重い。
探るようにその重さに向けて手を伸ばすと、少しだけ汗ばんだ人の肌の感触が手のひらに触れる。
よくよく確かめてみればそれは腕のかたちをしていて、後ろから抱えられるようにして抱きすくめられているのだと気付いた頃に、頭の上あたりからくすくすと笑う息が降ってくる。

「くすぐったか」

千歳くんの声だった。
ということは、いま私の手を咎めるようにつかまえた腕の持ち主も千歳くんということだ。

「…千歳くん?」
「うん?」

顔を見ようと首を動かしてみても、寝ている上に腰まわりを固定されているのでうまくいかない。
重ねて確かめるように呼んでみれば、伺うような返事をしながら私の頭にすり寄ってくる。
寝起きでいまだ常どおりはたらかない頭では、これはまだ夢かとも思えたが、私の手首あたりをとらえていた大きな手が意思をもって手の甲に重ねられる感触がそうではないと告げている。


「なに?」

元の呼び方に、どこか胸を撫で下ろす自分がいた。
やっぱり好きだと伝えたあの瞬間は夢で、名前を呼ばれたのもその一環だと。
ほっとしたような、残念なような。結局一歩踏み込みきれない私たちのまま、時間だけが過ぎていく。

「もう1回言うて」
「…なにを?」

ぎくり、疑念でおなかのあたりに違和がめばえる。
まさかと思いつつ何も知らぬそぶりで聞き返し、先ほどの安堵は早計であったかと思い直した。

「好きって」

そのまさか、放たれた一言の衝撃に、すっかり目が覚める。
頭は起きても身体は金縛りにあったかのように固まり動けない。
取り繕おうにも半端に開いた口の中は妙にかわいて言葉は出てこず、視線を彷徨わせるくらいしかなす術のなかった私をこれ幸いと、向き合う形になるように抱え直される。
あ、と間の抜けた声が漏れた直後、向き直った千歳くんの顔がすぐ目の前にあらわれ慌てて閉口した。

「な」

促す声とともに悪戯っぽく細められた目には、甘やかな期待と確信の色が浮かんで見てとれる。
逃げようにも腰は抱かれたままで、最後の抵抗とばかりに力の入らぬ手で千歳くんの胸板を押してみても、もちろんのごとく動く気配すらない。
ここが諦めどきか、観念したものの悔しさの名残とばかりに千歳くんの胸元に当てていた手で彼の服を握りしめる。
ぎゅっと目を瞑り、意を決して見た千歳くんの顔は、これ以上ないくらい楽しそうに綻んでいた。





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