「別れてほしいの」
が耳にしたのは女のそんな言葉だった。いつも通り学校に行って、いつも通り授業を受けて、帰る。唯一違うことといえば、朝に降っていた雨くらいだった。その雨も昼には止んでいたから、帰る際には傘を教室脇の傘立てに置き去りにしてしまっていたのだ。はふと空を見た。雲はもう風に流されほとんど見当たらない。この分だと多分明日は晴れだ、傘は放っておけばよかった。折りたたみだし。は思った。でも放課後の教室なんて、いつ誰が来るのかわからないわけだし、私悪くない、たぶん。心の中で言い訳をして、まっすぐに傘に向かう。けれど野次馬精神が働いたらしく、はちらと横目で教室の中を伺った。あいにく廊下からは中の様子はよく見えない。せいぜい見えて頭くらいなものだ。の視界の中に、先ほどの女らしき頭は見えなかった。背が低いほうらしい。しかし別れ話を切り出されている男のほうの頭は、半分ほどはっきりと見えた。
(赤羽だ)
見る者を嫌でも惹きつける鮮やかな赤の髪の持ち主は、のクラスメイトである赤羽隼人以外には考えられなかった。
「そうだな。それがいい」
平静に言う声は、の知る赤羽の普段の声となんら変わりなかった。彼はポーカーフェイスで有名だが、こんなときでもポーカーフェイスなのかとは得心した。もう傘はの目の前にある。これを取ってしまえば確実に音が鳴り中の2人に気まずい思いをさせてしまうのでは、とは危惧してその場にしゃがみこんだ。どちらかが、あるいは両方が教室から出てきたときに鉢合わせになっても気まずい。結局はがここに来てしまった以上、気まずいという空気に触れずに通り過ぎるなど無理だったのだ。はしゃがんだ位置から自分の折りたたみ傘に手を伸ばすと、なるべく音をたてないように手にとった。
「じゃあ、」
ひとつひとつ、折り目をきれいに整えていると再び女の声と、それに続く足音が聞こえた。やば、出てくる。がそう思ったときには、教室から出てきた女と目が合ってしまっていた。あ、この子、赤羽と同じバンドのボーカルの子じゃなかったっけ。彼女が立ち止まったとき、肩までの茶色くゆるいウェーブがふわりと揺れた。黒々とひかれたアイラインに挟まれた目が、をとらえて鋭く細められる。細く形のいい眉も、それに合わせて角度をつくった。睨まれている、とが理解すると、彼女は踵を返してつかつかと歩き始めた。なんだったんだろう。ぽかんとしながら、は彼女のいた位置を見つめたまま動かない。
「フー…、立ち聞きとは、感心しないな」
その位置に、ゆっくりと歩いて現れたのは赤羽だった。サングラスの下の赤目が、伏し目がちにを見る。
「傘取りに来ただけだもん」
ぱちん。整え終えた傘の留め具を鳴らして、は立ち上がった。それを鞄に仕舞い込むと、自分の荷物を持った赤羽が彼女を待つように立っている。
「部活は?」
「これから行くさ」
が歩き出して赤羽の隣に並ぶ。赤羽はそれに合わせて歩き出し、2人は並んで歩くかたちとなった。彼女と別れた直後に別の女と歩くのは一般的にどうなんだと思われることかもしれないが、彼らには関係のないことだった。お互い、友人以上の関係など望んだことがないのだ。少なくともは、赤羽にとって大事なものは音楽とアメフトしかないと思っている。にとっては今まで彼女がいたことすら驚きなのに。
「こういうこと訊いちゃいけないのかもしんないけど」
ふいには切り出した。何気ない話のように、下駄箱の扉を開きながら。
「なんで別れたの?」
ばたん。が扉を閉める音が、昇降口にやけに響いた。
同じく何気ない様子で、赤羽も靴を取り出しながら答える。
「…そうだな、音楽性の違い、ってヤツかな」
出た。赤羽お得意音楽性の話。は素直にそう思った。
「いや、少し違うか。音楽性は似ていたな」
じゃなきゃバンド組まないもんね。ああ。短い言葉の応酬。2人のうち長い話を始めるのは、ほとんど赤羽だった。
「全く同じではないにしろ、似ていたんだ。最初はそれで滞りなく進んでいた。だが僅かな違いが、決定的な違いでね」
「ふーん…」
は小さく相づちを返す。赤羽の音楽性の話は、なんとなくなら彼女にも理解はできた。
「同じロックでも、僕がハードロックなら、彼女はソフトロックといったように」
「ごめん、それはちょっとわかんないかな」
具体的に言われると話は別だが。フー、とサングラスをあげながら、赤羽が小さく息を吐く。
「君と僕の音楽性は全く別のものだ」
「へ?あ、うん、そう」
赤羽の突然な話の転換も、慣れてきたとはいえ、やはり驚く。少し慌ててが返すと、赤羽は続けた。
「例えるなら君は…ジャズといったところか」
「はあ」
「ロックとジャズは異なるものだが、奏でようによっては互いに良い影響を及ぼし素晴らしい曲を作ることもある」
「……えーっと」
これはいったいどういう意味であるのかと、は思いあぐねる。なんとなく、自分を認めていると言っているような気がした。
「音楽性は違えど、君と僕は良い関係にある、ということさ」
いきなりそんなことを言われるとは露ほども思っていなかったは、目を見開いた。あの赤羽が、笑っている。
「…そりゃありがたいや」
がその言葉を返すころには、もうアメフト部の練習場所はすぐそこだった。ゴールポストにキックを決めたらしいコータローが、お決まりの言葉を叫んでいる。
「じゃ、頑張ってね」
小さく手を振って、は帰路につく。数歩歩いたところで、「!」と、赤羽らしからぬ大きな声が後ろから聞こえた。彼は叫ぶということをするのかと、また驚いては振り向いた。仲の良い友人であるのに、知らないこともあるものだ。
「今週末、練習試合があるんだ。よかったら見に来てくれ」
そういや音楽やってて歌も結構歌うらしいし、大きな声が出るのは当然か。少しずれたことを考えながら、は大きく、息を吸った。
「気が向いたらね!」
は自分の想像以上に笑っているのに気付いて、ああこれは見に行くんだろうなと、頭の片隅で思った。
(アメフトのルール、勉強しとかないとなぁ)