きっかけというものは、唐突にやってくるものである。

それを機に自分の価値観が変わったり、その”きっかけ”を境にして同じ行動でも意味が変わってくるであるとか。
たとえば白石にとってそれは、1年と少し前に財前が「不協和音」と語った瞬間であったし、金太郎がテニス部に入ったことによって白石の包帯に巻かれた左腕が「毒手」となった瞬間である。
印象に残るものもそうでないもの(あるいはそれと気づいてすらいないもの)も、日々ふとした時に訪れて、誰かを少しずつ変えてゆく。

この春、千歳と時期を同じくして四天宝寺に転入してきた彼女が白石のすぐ後ろの席になったのも、もとをただせば一つのきっかけといえるかもしれない。




昼も近くなり空腹で集中力を散漫になりはじめる4時間目、図書室での自習を言い渡された白石たち2組の面々はやる気もそこそこに本の物色をはじめた。
担当教諭も急な用事であったのか、特に読むジャンルの指定もなければ感想文であるとかそれに類する課題の類も用意はされておらず、それをいいことに読書をせずうたた寝の時間にあてる生徒や、そもそも図書室に来ることもなく教室で早めの弁当を広げている生徒すらいる。

白石はといえば、いい機会だと以前から目星をつけていた本がしまわれている棚に足を向けた折、気になる後ろ姿を見かけ足を止めたところだった。

さん)

4月に新しく同級生となったその人が、本棚の端から端、そうしてまた次の段へと視線をめぐらせている。
やがて目ぼしい本を見つけたらしい、顔を上に向けているところを見るに目当ての本は一番上の段にあるようだ。
届くんかな、そう白石が思ったのち、の右手が上に向かって伸ばされる。指先が背表紙の下部に触れるも、棚から抜き取るには足りていない。
白石がそれを認識するころには既に彼の足は彼女のほうへ向かっており、白石が後ろからに代わって本を取るまではほとんど無意識のようなものだった。

「これか?」

親切心。
元来気質の優しい男である白石は、中学3年の春という中途半端な時期の転入生である彼女を他のクラスメイトに比べて気遣っていた。
そこには打算も下心もなく、彼の模範的な性格ゆえの行動であり白石からすればごく当たり前のことであったのだが、このとき彼は今回の行動がやや軽率であったと思い直すこととなる。

自分が手にした本が果たして本当にの望むものであるか、問いかけながら彼女に顔を向けた瞬間――

その近さに息を呑んだ。

彼女と同じ右手ではなく、利き手である左手で本に手を伸ばした結果、寄り添うような形となり必然、顔も近くなる。 が反射的に顔を上げ、ぱちりと目が合った。
その距離、およそ15cm。
予想外のその距離に互いに驚き、勢いよく後ずさりする。
驚愕で本を取り落とさなかったことだけは褒めてやりたいと、困惑する頭の片隅でちらりと浮かんだ。(正直な話、それどころではない。)

「す、スマン」
「ご、ごごめん!」

離れた勢いのまま声をあげたは口に出したあとここが図書室であることを思い出したのかハッと口を噤む。
焦ったようすで左右を見わたし、咎めるものがないとわかり白石に視線を戻すものの、顔より上は見ないようにしているようであった。
白石のほうも気まずげに目を泳がすばかりで、手にした本をへと差し出すまで脇の後ろがむずがゆくなる空気が続いた。

「本、これで合っとる?」
「う、うん」
「その、…ホンマ、堪忍な」
「いや、あの…ありがとう」

ぎこちなく言葉を交わす間も、お互いの視線が合うことはない。
は小さく礼を言ったあと白石の手からすばやく本を受け取ると、すぐに踵を返して早足でその場を後にした。
後ろ姿になってようやく彼女の姿を目にしっかり捉えることができた白石は、本棚のかげへと消えていく彼女の耳があかく色づいていたことに気付く。
…あかん。
胸中でひとりごち、空いた利き手で自分の耳にそっと手をやった。常よりも熱く、どくどくと血が巡っているのをいやというほど感じる。
おそらくは、先ほど見た彼女のそれと同じ色をしているはずだ。白石はそう確信した。
遠くでがらりと、図書室の入り口の引き戸が鳴る。きっと彼女が出て行った音だ。だってもし自分が彼女の――先にこの場をあとにする側であったなら、この空間で共にいられる気がしない。
彼女が図書室を出たのは白石としても助かる。が、今まさにちょっとした事件が起きた現場に居続けるというのは、それはそれで気が気ではなかった。
こそばゆい気にあてられ、膝から力が抜け白石はその場にしゃがみこむ。
自身の頭を抱え込むようにして俯き、右手に持ったままの読むつもりであった本がしばらく使いものにならなくなることを悟った。

「はぁ……………」

今本なんか読んでも頭に入る気せえへん。
おそろしく長いため息の後、目を閉じて白石の脳裏に浮かぶのはが自身を見上げたときの顔。次いで、離れたときに一瞬感じたシャンプーのものとも柔軟剤のものともつかぬ、ほのかな花にも似た香り。
いやに鮮明に思い出せるそれらを忘れることは、到底できそうになかった。




結局、うずくまったままでいるのを不思議に思ったクラスメイトに話しかけられるまで、その場から動くことができずにいた白石は、あの一件を境に明らかに自分に変化が訪れたことに気付いた。

それは配られたプリントを後ろの席の彼女に回すとき、グループワークで席が隣になったとき、右利きの彼女と左利きの互いの利き腕がそっと触れたとき。
今まではなんてことのない出来事であったはずなのに、今ではそのたびにあのときの彼女が思い出され、奥歯に力が入らないような心地になる。
そのうえ手が触れるだとか目が合おうものなら、触れた箇所も顔も熱を持ちしばらく思考もふわふわと宙に浮かされた。
授業中、黒板に解答を書きに行く後ろ姿や、休み時間に友人と談笑する姿、とにかくが少しでも視界に入れば目で追ってしまう始末。

さすがにこの原因たる感情が何であるか、白石は理解していたし、認めざるを得ない状態だった。

一度認めてしまえば、転入当時右も左もわからなかったにあれこれ気遣っていたこともそれ故であったようにも感じる。

しかし彼女を見るようになって気付いたことがあった。

彼女にはどこか壁がある。
決して”高嶺の花”のような遠い存在ではなく、人当たりもよく、誰にでも分け隔てなく明るく優しい。
けれどどこか一線引いていて、誰にも踏み込まず、踏み込ませないところがある。と、白石は感じていた。

それを感じているのがこのクラスで、この学校で一体どれだけいるかは定かではない。
絶対的に手が届かない、とは感じない。しかし届きそうであと少し届かない。
もう少し自分に何かがあれば、届くかもしれないのに。
…そう、例えば、もう一人の転入生である彼のように、背が高かったりだとか。

(…千歳、なら)

彼女はどうしてか、千歳と仲が良い。
隣のクラスである上、放浪癖のある千歳はたとえ同じクラスの者であっても毎日顔を合わせることすら至難の技だというのに、同時期に転校してきた者同士通ずるものがあるのか、校内でよく会っているようだった。
白石が気持ちを自覚する前、それを良いことにあまり部活に自発的に来ない千歳を探さずともよいが会ったときには「部活に行くように」と伝えて欲しいとに頼んだのは誤りであったか。
最初は学校の地理を覚えるためのものだった彼女の校内散策は、千歳探しのための校内散歩という日課に変わっていた。
それもあってか、恋慕の情とはいかないまでも千歳が他の女生徒に比べに気を許しているのは、白石の気のせいではないだろう。
結果として、敵(チームメイトをこう称するのも変だが)に塩を送ったのは過去の自分だ。

だからといって、簡単に諦められるほど白石は利口な男ではなかった。



「…すまんけど、今は部活のが大事やねん」

部活動に打ち込む青少年のお決まりの文句を述べ、白石は軽く頭を下げる。
何度か言ってきたこの断り文句は、ついこの間までは真実だった。
今は、嘘ではないが、真実でもない。
けれど今のところこの思いを知人友人はおろか本人にさえ打ち明けるつもりもないので、しばらくは心に秘めると決めていた。
白石の隠された恋心によって自身のそれを成就させることの叶わなかった女生徒は、軽い謝罪と話す時間をくれたことへの感謝を言い、小走りでその場を去っていく。
女生徒が校舎の角を曲がったところで、奥から「わ、」焦ったような驚いたような声が聞こえ、次いでごめんなさい、と先ほど白石に向けてそう言っていた声が聞こえた。
驚いたほうの声に聞き覚えがあり、誰にせよ衝突し怪我でもしていては事だと白石が一歩踏み出したところで、その声の主が角から現れた。

「白石くん」
「、さん」

はぱちりと目を瞬かせると、女生徒が去っていったほうを一度見て、なるほどといった顔で白石を再び見る。
思わぬ邂逅に嬉しさが募る反面、告白現場(正確にはその直後)を見られたという気まずさでやや居心地が悪くなるのは、致し方ないと思いたい。

「あ、ええと…たまたま通りかかっただけで、何も聞いてないよ。ほんとに」

は胸の前で小さく両手を振り、委細の認知の否定を示してみせる。
それでも内容は察せられているのだから、白石の居心地が悪いままなのには変わりない。
歯切れの悪い相槌を返しつつ、話題を変えるべく白石は口を開いた。

「そういや、どないしたんこんなとこで」

所謂校舎裏、人のあまり来ないーー有り体に言えば告白におあつらえ向きの場所に彼女が用があるとは思えない。
ましてや転校して数ヶ月、訪れたことがあるかどうかも怪しいくらいだろう。
…もしかして。
白石の中に、確信に似た疑念がわく。
脳裏に浮かぶ、背の高い影。

「うーん…千歳くん探しって名目の散歩…かな?」

直後、白石の疑念を見透かしたような答えが返って来、ぎくりとした。

「なんで疑問形やねん」

それと悟られないように応えるものの、疑念はまた別の疑念へと変わり、白石の心のうちに黒い煙のような思いが燻る。

「うーん…あんまり探してないから」
「? 探してないって?」
「”探そう”って気でいると見つからなくて、ふらっと散歩してたほうが見つかるの」

だから探さないで、ふらふら散歩してるだけ。
の困ったように笑った顔が、白石の胸のもやを更に燻らせた。
彼女の散策の先にある目的は千歳に会うことだ。彼女はそれを望んでいて、おそらくは千歳もそれを望んでいる。
二人の間の結びつきが互いへの好意であるのなら、自分の入る余地はないのではないか。

「…千歳のこと、ようわかっとんねんな、自分」
「ええ? 全然わかってないよ、見つけても部活に行く気にはさせられないもん」

その辺はやっぱり白石くんじゃないと、言う彼女はテニス部をはじめ、どの部活にも所属していない。(曰く、「中途半端な時期に入ってもお互いやりづらいだろうし」とのことだった)
テニス部の一員として部活に行って欲しいと言うならまだしも、友人の一人として部活に行けというのは効き目が弱いのも頷ける。
これはあくまで白石の想像の域を出ないが、仮にが「千歳がテニスをしているところを見たい」とでも言えば部員からの言葉よりもよほど効力のあるように思うけれど、また塩を送るような形になる気がして助言は控えておいた。

「ごめんね、あんまり力になれなくて」
「別にええねんで、んな毎日のように探さんでも。気ぃ向いたときだけで」

気遣うようで、その実千歳のところに行ってほしくないという自分勝手な考えからくる言葉だ。
あまりにも自分本意な物言いに自身で辟易し、白石はうまくの目を見られない。
白石の視界の端で、は一度驚いたように目を見開くと、何処か拗ねたような表情でぽつりと呟いた。

「……白石くんの頼みごとだから、してるんだけどな」

え。
随分間の抜けた声が出る。
驚いて白石がを見やると、彼女は心なしか頬を色づかせており、その光景がうまく処理できず白石は寸の間動くことができなかった。
「それって、」ぽかんと開いたままの口からようやく絞り出した真意を問うことばは、最後まで紡がれる前にによって遮られる。

「…今日は散歩終わり! じゃあ、私帰るね」

言って、踵を返そうとするを「待ってや」引き止めたのは、白石もほとんど無意識であった。
振り返ったの困惑した顔を見て、こちらも思わず戸惑う。後に続くせりふは、用意していなかったからだ。
手を伸ばそうと中途半端な位置で留まっていた左手で意味もなく襟足に触れながら、白石はなんとか言葉を選んだ。

「暇やったら、部活見に来てくれへん、かな」

この"はじまりのきっかけ"が二人にどんな変化をもたらすのか、当人たちにはまだわからない。