※おゆ先生作の「アイって難題」からのifのような話(単体でも読めます)












ツイてない。
大なり小なり不幸だとか不運というものは日々降ってくるものだが、ライアンがこの日そう感じたのは、久方ぶりに訪れたシュテルンビルトの街を歩いている途中、ごく小さな水の粒子が、ふっと頬に触れたときだった。
突発的に舞い込んできた仕事のためにこの街を訪れることが決まった折は、もしかしたら、を期待して"ツイている"と思ったものだったが――。
ライアンが訝しげに空を見上げてみれば、賑やかといえば聞こえはいいが騒々しい街の不安定さを映したかのように揺らめく雲がどんよりと暗く陰っていた。
昼前からの仕事の前までは日差しが出ていたような。思っているうちに今度は額に粒が触れて滲む感触があり、ライアンは過去この街にいたときの記憶と今しがた歩いてきた道の光景をさっと辿る。
もう少しだけ歩けば、以前いたコンチネンタルエリアにも今の契約先の近くにもある大手チェーンのコーヒースタンドがあったはずだと足を向けると、ライアンを追い立てるかのように雨粒はその大きさと勢いを増した。

仕事を終え、自由な時間を得たと思った矢先の雨で出鼻をくじかれた形ではあるが、こうして雨をしのぐ場所をすぐに得たのは運がいい。
朝に街に着いて早々まっすぐに仕事に向かい夕刻を迎えた身には一息つくにはちょうどいいかと、大きなガラス張りの窓が見える店の中ほどのソファ席に腰かけ、買ったドリンクのカップに口をつけた。
ラテで甘やかに中和された新緑や公園の芝生にも似た緑の香りと、コーヒーとも紅茶とも違う独特の渋みが舌の上を抜ける感覚に、ライアンが眉をひそめていたのは以前この街にいた2年前のことである。
ライアンが初めて抹茶ラテを飲んだのは、同じく2年前に出会ったと互いの職場近くにある同系列のコーヒースタンドに入ったときだった。
ひとくち、と言って半ば強引にせしめたものの、未だ経験したことのなかった味に文字通り苦い顔をしていたのもそう遠くない記憶である。
「渋いモン飲んでんなぁ、ちゃん」
「そんなことないと思うけど。お茶は小さい頃から飲んでたし」
少しだけ口をとがらせながら言う彼女の同年代にしては幼さの残る顔立ちを眺めながら、なるほど出身はオリエンタルだと言っていたと思い至った。
一見表裏がなさそうで、しかし"読み取る"のが難しい彼女のことをまたひとつ知ったことに小さな満足感を覚えていたあの時。
以来、この街に来るまでは特に気にも留めていなかったそれをライアンが頼むようになったのは、決まってのことを思い出すときであった。
いつの間にか慣れてしまって好ましいと思うようになったことは、彼女にはずっと言っていない。

ライアンがまだシュテルンビルトにいた頃――2年前の時点では、とライアンは出会ってからの時間こそ短かったが、互いに"良き友人"としての関係性を築いていた。
ライアンの軽口に屈託なく笑い、時に拗ねたように怒り、そして時には挑発するように言葉を投げかけてくる。
同年代ということもあってか程よく楽しいコミュニケーションが取れ、かといって詮索されたくないような深くまで干渉するようなことはしない。
丁度良い距離感と言える関係だったが、ライアンは同時にに「踏み込ませてくれない」壁のようなものが存在することも感じていた。
彼女の元々の奔放で気ままな明るい性質の裏に見え隠れする何か。
それを知りたいと願ううち、ただ一つのことに気付いてしまったあの日。
「大切な友達」。嘘も偽りもそれ以上も以下もない、彼女にとっての自分の立ち位置。
こちらはとっくに「それ以上」を抱いていたはずなのに、自分にしては珍しく気付くのが遅れたばかりに伝える機を逃した本意は、あれからも胸の奥で燻り続けている。

あの別れ以降も度々連絡を取り合っている2人の縁は未だ続いているものの、依然友人止まりである。
――いや、それこそライアンが自身の"本意"に気付いた様子を悟ったは、その気付いたものが何であるのかを問い正してはきたが――
『もうちょっと大人のイイ女になったら』、そう条件付けて隠した想いは伝えるべき瞬間を見つけられないままでいるから進展もない。

――もし、運良く彼女に会えたら。
そのツキにつられて、伝えたい言葉が口をついて出るかもしれない。
ライアンがそんな"もしかしたら"を期待して再び降り立ったシュテルンビルトの街は、強まる雨足で歩き回ることも叶わない有様だった。
そもそも今日ライアンがこの街を訪れるということでさえ、はおろか他の縁ある人物にも伝えていない。
あまりに急な話で旧知の人間に会いに行く時間がとれるかもわからなかったし、もし時間があるようなら知らせないほうが驚きがあって良いと思ったから。
(…いや、まだ「伝えられる」と思えてないだけか)
もっともらしい言い訳が覆い隠す自身の本音をどこか他人事のように見つめながら、ライアンはソファに背を預けた。

ふと息をつき店内を見回してみれば、同じく雨宿り目的と思しき客がちらほらと増え始めている。
窓の外では慌てた様子の通行人がいくらか見受けられ、既に運良く傘を手にした人々がそれを尻目に闊歩していた。
そうしてライアンが夏を目前にして薄着になりつつある人々の中に見つけたのは、深い青のワンピース。
手庇を作りながら雨を避けられそうな道を探すかのごとく歩道の端を小走りで駆けるたびに、"彼女にしては"長めの裾が控えめに揺れた。
――そんな偶然あるワケがない。
けれど髪型や服装の雰囲気が自分の知っているものと違うからといって、見間違えるはずもない。
「――ちゃん、」
"もしかしたら"を期待した彼女その人であると確信に似た何かがライアンの脳を電流でも走るかのように駆け巡り、時が止まったかのように、その場から動けなくなる。
やがてガラス越しに街を急ぐ彼女の姿が見えなくなった瞬間、ライアンはカップを音が立つほどに勢いよくテーブルに置き立ち上がった。
足早に店を出ていくライアンとそれに驚く客たちの一部始終を見ていたのは、テーブルに取り残された紙のカップだけである。


慌てて追いかけた先、降り続ける雨が駆けていく彼女の姿を滲ませている。
人波をすり抜け走ってゆく彼女の早いこと。仕事柄は有利に活きるライアンの平均より大きめの体躯がこのときばかりは人を避けるのにいささか不便で苛立つ。
あちらは雨に気がいっていることもあってかライアンが後を追っていることにさえ気付いていないのに、まるで逃げるかのように脇の路地へと入っていく。
不揃いで微かにでこぼことした石畳の道さえこの雨の中では面倒で、自身の能力で平らにしてやりたいとさえ思った。

遠くでごろごろと雷が鳴る。
薄暗い空を一瞬だけ輝かせる光が、ライアンの脳裏でちかちかと瞬き、足に走れと鞭を打つ。
五月蝿いくらいに鳴る鼓動も、急かすようなリズムにさえ聞こえる。

伝えるべき言葉の適切な形はまだわからない。
しかしこのある筈がないと思っていた偶然を逃してはいけないことくらい、ライアンは当然わかっていた。

!」

近付いた華奢な背中に呼び掛けて、彼女の左手首を走る勢いのままに掴む。
肩をびくと揺らし、一瞬警戒したような険しい顔で振り返ったの目が、ライアンの姿を捉えて大きく見開かれた。

「…ライアン?」

なにが起きているのかわからない、とハッキリ書いてあるかのような顔で固まる彼女を近くにあったオーニングの下に引っ張り込む。
その前髪から滴り落ちる水滴を合図にするかのように、ライアンは彼女の身体を抱き寄せた。
驚きにこわばるの肩を手のひらで包むようにして抱くと、ノースリーブの袖口からのぞくそこまで冷え始めており思わず顔をしかめる。
「な、なんで、」
困惑した様子で身じろぎするを制す意味合いも含めて、ライアンは耳元に顔を寄せた。
――今の自分が伝えたい率直な想いが全て伝われと願って。

「…会いたかった」

その言葉に、腕の中の彼女の身体はぴくりと強張り固まる。
抵抗しないのを良しとばかりにライアンはを更に強く抱き込むと、互いの心臓が早鐘を打つのさえもありありと感じられた。
双方雨の中走った直後ということもあるが、の鼓動の速さがそれだけが理由でなければいいとライアンは思ったし、自分の鼓動の速さもそれだけが理由でないことが伝わってしまえと同時に思う。
走った後の呼吸が整ってもなお言葉も身じろぎのひとつも返さない彼女を疑問に感じ、ライアンはの肩に手を添えそっと身体を離した。
「…ちゃん?」
「え、あ…」
急に顔を見られたことへの驚きゆえか、呆気にとられた様子で開いたの口から言葉にならない声が漏れる。
その顔は誰がどう見ても直前まで走ったことが言い訳にできないくらいに赤く染まっていて――期待を上回る反応に、ライアンは口の端が緩みそうになるのをすんでのところで堪えた。

だって、どうして。
そう呟いて不安と期待に揺れ動くの瞳がライアンを見上げる。
――だって海の向こうにいたはずなのに、どうしてここにいるのか。
――だってお互いに良き友人であったはずなのに、どうして"それ以上"を思わせることをするのか。
の疑問がどこにかかっているのか、言葉足らずな以上ライアンには読み取れなかったが、そんなことはどうでもよかった。
自分の言動、行動に対して、熱で潤んだ瞳と赤い顔、そして抱きしめたときの鼓動の速さが自らの想いへの何よりの答えであると思えた。

「私、まだ大人になれてないよ、」

降り続く雨に揺らされたかのごとく震えた声ではぽつりと呟く。
あの別れの日に出した条件を指して出たであろう言葉に、ライアンは思わず目を瞠った。
以前よりも少し低い位置に結われた髪。襟元にビジューがあしらわれたネイビーブルーのシャツワンピース。インディゴに輝くスクエアカットのイヤリング。
過去見ていた彼女のイメージからはほんの少し背伸びした、今の彼女を彩っているひとつひとつ。
それらももしかして自分のあの言葉の影響なのかと自惚れたくなるような発言に、その根底にあるであろう彼女の想いにくらりとする。
雨と緊張のせいか冷えたの左手をそっと掬い上げ、ライアンは慈しむように唇を寄せた。

ちゃんは、あん時からずっとイイ女だよ」

ごめんな。お待たせ。
好きだという想いと、その次に伝えたい言葉たちを乗せて、もういちど手の甲に口づけを落とす。
こらえきれずにくしゃりと歪んだ泣き顔までもが愛おしくて、全てを受け止めたくて、ライアンはまたを抱きしめた。


どうやら通り雨だったのか、雨足が遠のく準備をするように弱くなっていく。
西の空は少しずつ夕焼けの日差しで明るくなり始めていた。じきに雨宿りの必要もなくなるだろう。
「積もる話もあることだし、茶の一杯でもどう、オネーサン?」
彼女が泣き止んだ頃を見計らい、ライアンが冗談めかしてそう告げると、は伺うようにこちらを見上げて――、
「……一杯分で足りるの?」
煽るかのように質問で返した。

「……足りるワケねぇじゃん」

2年分だぜ。挑発的な笑みを返せば、彼女は至極嬉しそうに頬を緩めて「うん、そうだね」と笑う。
今までのどの時とも違う想いを通じ合わせて笑みを交わせるこの瞬間に、胸が満ち足りるとはこのことかと、ライアンは右手に絡めたの指先を強く握り込んだ。