してもいい?

たった6文字の簡素すぎるメッセージを前に、驚いたのはいつのことだっただろうか。
主語もなければ述語すら曖昧なこの文に今ではすっかり慣れきってしまって、は迷いもなく「いいよ」と3文字だけ携帯電話の向こうの彼に返した。

彼が最初にこんなメールを寄越してきたのは、彼がの住むシュテルンビルトから離れて2ヶ月ほどの頃だったように思う。
元々と彼――ライアンはそこそこの頻度でやり取りをする仲で、彼が拠点を海外へと移しても尚、2人の仲は変わらなかった。週に2、3度、短いながらも互いの近況報告をしたり、他愛のない話をしたり。写真を撮るのが趣味なライアンからは、その日撮った写真が送られてくることも多く、彼が興味を向けるものにしげしげと眺め入ったりしたものだ。
ただ彼はどうも、その大きい図体で小さな携帯でちまちまと文字を打つのが性に合わないらしい。文を省略したり、単語を絵文字で置き換えてみたり、果ては電話すると言ってみたりと、手間を省こうとするのが常であった。
そしてある日、ぱっと見では意味の通じない、例のメールが来た。『してもいい?』いや、何をよ。は思わずそう声に出した。はてどう返すか、は今までライアンとしてきたやり取りの中に類似したものがないか思い浮かべながら、答えを推測していた矢先に、の携帯が再度鳴った。差出人はまたライアンで、これまた内容が、果てしなくシンプルなものだったから、は思わず笑う。
電話の絵文字、たったひとつ。
なるほどどうやらこれが抜けていただけらしい。この絵文字と、さっきの6文字と合わせて「電話してもいいか」と、彼はそう言いたかったのだ。
そういった伺いのメール自体は初めてではなかったものの、さすがにここまで省かれたのは初めてだったのでいささか面食らった。その時「いいよ」と返してから、意味が通じることに味をしめたのか、電話をかけたい時には「してもいい?」の6文字で済ませるようになってしまった。

だから今回もそれのはずだ。は仕事終わりのややけだるげな身体を、ごろりとベッドに横たえる。部屋着へと着替える前になんとなくつけたテレビでは、タレントが海外の観光スポットを巡る、ベタな旅行番組を放送していた。やがて鳴った携帯を手を取る前に、リモコンの消音ボタンを押してからはライアンからの呼び出しに応えた。

「もしもし?」
『よーちゃん、俺俺』
「…詐欺かと疑われちゃうからやめたほうがいいよ、それ」
『電話して早々つれねえこと言うなって』

けらけらと笑い合いながら、お互い軽口を受け止める。以前彼とこうしたのは確か2週間くらい前だった。その間寂しいだとか、こちらから電話をかけてみようだとか、そういったことを思ったことはない。だって彼とは、そういう間柄ではないのだ。甘い言葉を交わして、しばらく顔を見ないと不安に思うような、そんな。

『今何してた?』
「特になにも。帰ってきてそんなに経ってないし、テレビ見てたくらいかなあ」

そう口にしながら、は音の鳴らないテレビを眺めてみた。相変わらず、シュテルンビルトでは目に出来ないような趣のある町並が、画面の中で流れていく。

「…いいなあ」
『は?何が?』

ぽつりと呟いた特に意味のない言葉は、電話の向こうの彼にも届いてしまったようで。
訝しげに声をあげるライアンに、「ああいや、テレビの話」と短く弁解する。

『俺様を差し置いてテレビかよ?で、何見てたの』
「何っていうほどでもないけど…旅番組?」
『ふーん…じゃ旅行してぇの?』
「え?なんでよ」
『いいなーっつったじゃん、さっき』

そうか。そうなるのか。「ああ…」気の抜けた返事をしながら、は持て余した自分の欲に目を向けてみる。旅行、したいのかなあ。そういえば就職してこの方、ゆっくりどこかへ旅に、なんてしていなかった気がする。仕事に追われる日々と、適度な趣味があったせいか、そういうものに執着がないのだと思い込んでいたが、どうもそうではなかったらしい。
人並みに珍しい景色への羨望は持っていたということなのかもしれない。

『じゃあこっち来れば?』
「………は?」

唐突に耳に入ってきた言葉に、思わず目を丸くした。まず行くなら手近に国内あたりが妥当だろうと考えていただけに、にとってその言葉は大分突飛な提案のように感じる。

『旅行だよ旅行。案内くらいだったら俺がしてやるし』

彼と自分との間には海を隔ててかなりの距離があって、旅行といってもそう気軽な話じゃないというのに、わかっているのだろうかこの男は。ああそういえば、金に不自由していないタイプだったと思いながら、その提案を呑んでみようかと考えている自分がいるのに気付いて、は大きく溜め息をついた。




海を越えるというのは、簡単なことではない。
遠い遠い昔、それこそシュテルンビルトに伝わる女神の伝説があったとされる頃には、船ならまだしも空飛ぶ乗り物で別の大陸に渡るだなんて、人々は考えもしなかっただろう。
国から国へ飛行機で移動する仕組みがこの世にできてそれなりに久しいが、全く知らない土地に飛び込んでみるというのは、やはり多少勇気のいることだろうと、は思う。
人生のほとんどをシュテルンビルトで過ごしたからか尚更、国を越えてまで遊びに行ってみようとは思ったことがなかった。
一方の彼はといえば、「さすらいの重力王子」と呼ばれるだけあって、渡り鳥よろしく各地を転々としている。元はといえばシュテルンビルトに来たのも海の向こうからだったし、ひとつの場所にあまりこだわらない性質なのだろう。(「ポリシーか何かか」とが前に問うたことがあるが、得意気に「俺様はひとつの国に収まってるような小せぇ存在じゃねぇのよ」と返された。答えになっていない。)
結果としてその価値観の相違が、と彼の間に広大な海という物理的距離を産んだわけだが、技術の発展というものは恐ろしくも有り難いもので、半日ほど飛行機の中で座っていればその距離も埋められてしまうものである。


「よっ」
「久しぶり、ライアン」

こっち来れば、がそうライアンに言われてから早いものでおおよそ1ヶ月。
初めての一人旅、初めての国外、初めて訪れる場所。初めて尽くしの異国の地で、唯一知った顔がそこにいることが、想像以上に心強い。少なくとも半年は会っていなかったにも関わらず、電話やメールを頻繁にしていただけにさほど2人の間にぎこちなさという距離はなかった。

「変わってねーな、ちゃん」
「そっちこそ」
「何言ってんだよ、俺様は日々格好良さを増してるっつーの」

何言ってんだはこっちのセリフよ。いつもの軽口と同じはずなのに、直接顔を合わせてするそれは、なんだか少しくすぐったい。
見上げなければ交わらない視線の高さも、電話を通さずに耳に響く声も、何も言わずに大きな荷物を持ってくれるさりげない優しさも、会わなければ感じ得ない彼である。電子機器を通じてしか見えていなかった彼と、実際の彼との差に嬉しさを感じながら、はライアンについて歩いた。
「その様子じゃどうせ彼氏もできてねーんだろ」、失礼なことをずけずけと言ってのける彼の脇腹に軽く一発お見舞いできるのも、がこうしてここまで来なければできないことであった。



ももちろん知っていたことではあるが、ライアン・ゴールドスミスは有名人である。
コンチネンタルエリアでヒーローとして活躍していた頃(は直接その頃を知らないので予想だが)も、シュテルンビルトでバーナビーとコンビを組んでいた頃も、市民の支持をこれでもかと集めていた。
短い期間でも自分を魅せることが上手い彼は、どこにいたって人の目を集めながら世の中を渡る。
新たな地でも活躍していることは聞き及んでいたものの、歩いているだけでも注目の的になるのは、さすがといったところか。
そんな男と友人であることに不思議な心地を覚えながら、は自分にもいくらか好奇の目が向けられていることに気付いた。それもそうだ、遠く海の向こうからやってきた人気ヒーローの隣に、どこの馬の骨ともしれない女がいるのだから。一体何の権利があって、ライアンの隣を陣取っているのだろうか、そんなことを思われているのに違いないと、は思った。
ライアンにだってこちらの生活があることは重々承知している。あくまで友人として、彼を1日借りているだけだ。言い訳めいたことを心のうちで呟いて、ライアンが行きつけだという店に入った。「見かけない顔だけど、新しい彼女?」「そんなんじゃねーよ。友達」顔見知りらしい店員に返したライアンの言葉が、何故かやけに胸に刺さった。


「今日の夜にはもう帰んだろ?」
「うん、まあね」
「もうちょっとゆっくりしてきゃいいのに」
「さすがにあんまり仕事休めなかったし。観光は昨日ちょっとしたし、いいかなって」

シュテルンビルトにいたらまず食べないであろう、異国情緒たっぷりの昼食を食べながら、残りの時間の過ごし方について話す。ライアンが連れて行きたいと思うところでいい、と来る以前からは言っていたのだが、折角の旅行だしとなんだかんだ気を遣ってくれる。彼のそういうところが――
(…そういうところが、なによ)
自分の思考が辿り着こうとしていたその先が、自身よくわからなくて思わず手を止める。
「どした?」尋ねてくるライアンに、なんでもないと笑って返して、は食事と一緒に靄のような思いを飲み込んだ。




来るまでは、長かった。来ると決めてから実際来るまで、その前に来ようと思うまで。
いざ来てしまえばあっという間に時間は過ぎていく。は昨日の朝訪れたばかりの空港にまた足を踏み入れながら、時の流れの速さを恨んだ。
ライアンが連れて行ってくれた場所は、どこも楽しかった。所謂観光名所だったり、そういう場所としては紹介されないが、ライアンが訪れて面白いと思ったところだったりを、数は限られたがいくつか巡った。わざわざライアンが持参したカメラで、2人一緒に写真を撮ったりもした。
空港の片隅で、はたった半日ほどの楽しんだ記憶を思い返しながら、目の前のライアンを見上げた。
あまり人が多いところだと彼が目立つので、少し人目のない場所で。

「今日はほんとにありがと」
「いーってことよ、俺も久々に楽しかったし」

かれこれずっとライアンが持っててくれていたスーツケースを受け取ると、はちらと自身の腕にはめた時計を見た。搭乗時間が、迫ってきている。

「私も、ライアンのおかげですごく楽しかった」
「おう。写真、そのうち送っから」

ちょっとだけ、2人の間に沈黙が降りる。これからまた2人を隔てる海が、少しずつ浸食してきているかのようだった。
時間、もうそろそろなんじゃねぇの。
ライアンにしては静かな声が、の鼓膜を揺らす。うん、そうだね。返した声も、存外静かで、ほんのかすかに震えていた。
別に、これが今生の別れってわけじゃない。だってもう既に、シュテルンビルトで1度別れは経験しているのだ。連絡だって今まで通りすればいい。何も変わらない、今まで通りの2人に戻ればいい。「ちゃん」「なに」そんなの、わかっているのに。「してもいい?」「いいよ」
いつもの明るいトーンで発せられた言葉に、反射的に返事をしてしまってから、はたと気付く。
さっきのライアンの言葉は、2人の間で「電話をする前」の伺いの言葉であったはずだ。直接目の前に相手がいる場合、この意味は通用しないのではないか。

「待って、するって…」

何を。

そう言おうとしたの口は、ライアンのそれに塞がれていた。

あまりにも驚いて、ライアンの顔が離れてもの口から言葉の続きは出てこない。
代わりにせわしなく口を開いたり閉じたりしながら、目を見開いてライアンを凝視している。
ライアンはしたり顔でふふんと鼻を鳴らして、未だに状況の飲み込めていないに言った。

「同意はとったし?」
「な…っ」
「ホラホラ〜急がねぇと飛行機逃すぜ〜?」

顔を真っ赤にしたまま動かないでいるは、茶化すように言ったライアンに背を押されてようやく事態を把握する。してやられた。このままはいさよならと搭乗口に向かえるわけもなく、は改めてライアンに向き直った。

「ちょ、ちょっとライアン!!」
「なんだよ、別に初めてってわけでもねーだろ」
「そういう問題じゃない!」

そうして気付いてしまったのだ。勇気を出してわざわざ海外へ旅行しようと思ったのも友人として胸を張って隣を歩けなかったのもきっぱり友達と言われて少し傷ついたのも別れがやけに惜しいのも全部、

(全部、始めから…!)

口を引き結んで、は俯いた。心のどこかで見ないようにしていた思いが、ぽろぽろと溢れて止まらない。ライアンが自分を抱き寄せる腕が思いのほか優しいのが悔しくて、はライアンの服をきつく握りしめた。子どもをあやすように背を叩く手も、何もかもわかってると言いたげで小憎らしい。

「今度は俺がそっち行ってやっから」
「っばか、もう知らない」

突き放すように言った言葉もなんのその、ライアンは一旦身体を離してからの顔を覗き込んでにやりと笑った。

「そん時までにちゃあんと覚悟決めとけよ、

最後にの頬にキスをひとつ落として、じゃーな、とライアンは踵を返す。振り向かずに片手だけをひらりと挙げる彼の後ろ姿を見送るのもそこそこに、半ば自棄になりながら荷物をひっつかんで、は搭乗口へと向かった。当分好きだなんて言ってやるものか、そう固く心に決めて。



(もう一発くらい殴ってやるんだった!)