日ごとまどろみに誘うかのような陽気が増していくのを、は外を歩くたび実感していた。
年中春を連れているかのような友人は、いよいよ訪れる大好きな季節に心躍らせている。
海が似合う快活なもうひとりの友人も、暖かな日差しを歓迎しているようだ。
誰もが待ちわびた春がすぐそこに迫っているというのに、の気分はたびたび雲に隠される陽のように陰っていた。
というか、その一因は2人の友人のうちの片方にあるのだが。




「俺ァお前のことが好きだ。だから、俺のモンになってくれ」


「…………えっ」
「…返事は急がねえ。とりあえず、考えてみちゃくんねーか」

あの時の衝撃を思い返すだけで、今でもの胸はきゅうと締め付けられる。
ただただ頭を占める驚きと、いやというほど真剣な元親の瞳、ほんのり赤くなった目尻。
彼の言葉と共に、その光景と握られた手の感覚がフラッシュバックする。



そもそもの事の発端は、去年の秋の暮れ。
元親にどうやら好きな相手がいるらしい、という話になった。
友人のひとりに好きな相手ができたからといって友人関係をナシにするような発想はなかったが、それでも元親に近しい異性である自覚があったは、元親に遠慮するという発想には至ったのだ。
それを知ってか知らずか、元親がなんとなくに距離を置き始めたのもその頃であったような気がする。
時を同じくして、以前付き合っていた他校の彼から連絡があった。
相手の下心もなんとなく察しはついていたものの、元親との距離の変化の口実にするのには丁度良いと、久方ぶりに会ってみたりもした。
その彼から「もう一度付き合って欲しい」と告白されたのは、年が変わり試験やレポートも粗方片付いた頃。
「やはりそうか」と思う気持ちと、喉の奥に何かつかえたかのようなもやが浮かんだは返事を保留してほしいと返した。


保留とは言ったものの、の答えは最初から決まっている。
彼と過ごすよりも元親や慶次と一緒に騒いでいるほうが遥かに楽しいから、彼との別れを過去に決断したのだ。
その答えは今でも変わっていない。
変わらない…が、元親に彼女ができたとするなら、もしかしたら変わってしまうかもという懸念は拭えなかった。これが返答への判断を鈍らせた。
何事もこざっぱりとした答えを望むには、比較的珍しい失態である。

春休みに入り、ずるずると彼とたまに会うことを続けていたら、偶然それを元親に見られてしまったのが1週間前。

の姿を見るなり足早に近付いてきた元親は、が今までに見たことがない怒りを孕んだ冷ややかな目をしていて、恐怖すら覚えたのはの記憶に新しい。

「…元親、」

と名を呼ぶのも待たずに元親はの手首を引っ捕まえて「来い」と連れ出した。
取り残されることに抗議するべく声を上げようとした元彼が、に向けたよりも数倍冷たい元親の視線に黙らされていたのは、未だも知らないことであったが。

元親のほうから距離を置いていたはずなのにどうして、何故怒ったような素振りなのか、なんで今日ここにいて、自分を引っ張ってきたのかーー次々に浮かぶ疑問がの頭を支配する。

「ちょ、ちょっと、元親ってば」

混乱したまま改めて名を呼ぶと、元親は静かにその場で止まった。

「…俺はもう間違えねぇぞ」

向こうをむいたままそう呟いたかと思うと、握った手を離さずに元親はへと向き直る。
改めて見た元親の瞳は、先程の冷たさはどこへやら、熱情をたたえて揺らいでいた。これもあまり見たことがない顔だった。
通りの喧噪も、図ったかのようになりを潜めていて、人通りもほとんどない。
それはもしかしたら、あまりの出来事にそう感じていただけかもしれないけれど。


そうしてその直後に元親の口から出たのは、件の告白である。


ひたすら混乱を極めたあげく、はぽかんと口を開けたまま「…うそぉ」とこぼすのが精一杯だった。

「おま…人が一大決心して…あー、まぁいい」

元親は呆れたように返すと、笑っての手を離して彼女の頭に乗せた。
そのままわしわしと髪を乱すように乱雑に撫でて、「ったくよぅ」と世話焼き気質の垣間見える声音で言う元親は、すっかりのよく知るいつもの彼だ。

「言っとくが、本気だからな。考えとけよ」

けれど乱した髪を指先で慈しむように梳きながら、優しい瞳を向ける元親は、やっぱりいつもと少し違う。
彼といて経験したことのないむず痒さを感じた自分に、戸惑った。
こんなのまるで、――




「…、
「あ、ご、ごめん孫市」

呼ばれる声にハッとして、思考の淵から浮上する。
向かいに座る孫市はゆったりとした動作で紅茶を一口だけ飲むと、凛とした瞳でを見た。

「浮かない顔だな」
「えっ、そう?」
「ああ。あのからすの言葉を借りるなら『景気の悪い顔』というやつだ」

友人であり、慶次の思い人兼元親の昔馴染みの孫市に相談ごとをするのは、これが初めてではない。
そこらの男性よりも男前で冷静な判断力に長けた彼女のことを、は何度か頼りにしていた。

「言わずとも想像はつくがな」
「う…」

あれからというもの。
お互い避けていたのが嘘のように、以前と変わらず慶次も交えてふざけあっている。
しかし元親がに告白したことは慶次を含め周りの知るところのようで、まだ返事をしていないのかとせっつかれるようになった。
つつかれるたび、真実以前と同じではないことを自覚させられては、は悩んだ。
3人で騒いでいても、場合によっては元親からの好意を念頭においた上で行動を決めなければいけない場合もある。
なによりふとした瞬間に、あのときの優しげな元親の瞳が自分を見つめてくるのが、いちばん心臓に悪かった。

「もう一人の方はどうした」
「…断った」
「そうか。何故だ?」
「…もう、好きにはならない気がした、から」

の言葉に、フ、と小さく笑ってみせた孫市はポケットから携帯を取り出して軽く掲げる。

「前田から誘いが来ている。今週か来週あたりで、我らとあの二人とで出掛けないかと」
「うん、知ってる。今度こそ孫市といい雰囲気になるぞって、意気込んでたけど」
「フッ、からすめ」
「…気、遣わせてるよね、たくさん」
「あの男の性分だ。好きにさせておけ。活かすか殺すかは、お前次第だ」

他人の恋路に首をつっこんで徹底的に応援したがりな慶次のことである。
自分の好意すら利用して、と元親を上手く二人にさせたいつもりであることは、とて気付いていた。

「…はやく、答え、出さなきゃね」
「何を言っている。もうお前の中で答えは出ているのだろう」
「え、」

孫市はどこか困ったように笑うと、最後にひとつだけこう言った。

「意地を張るのもそれくらいにしておいたらどうだ」




…意地、張ってるつもり、ないんだけどな。

の胸中の呟きは、バイト先のスチール製ロッカーの扉にやんわりと跳ね返される。

「…はぁ」

なにかもう一つ、一歩を踏み出す決定打を待ってしまう自分が情けない。
うじうじ悩み続けているのが性に合わないのは、自覚しているのだ。それなのに。
春休み中で学校のものが取り除かれたリュックは常より軽いはずだったが、心なしか重く感じたのはこの惑いのせいか。
力なくバックヤードの扉を開けて外に出ると、日中多少暖かくなったとはいえ冷えた空気が体を刺した。

「遅ぇ」

それと同じくして鼓膜を震わした声は、の心の荷を重くしている張本人のもの。
まさか、なんでここに、気分と一緒に下にやっていた視線を声のほうにやる。
普段から決して良いとは言えない目つきを鋭くこちらに向けながら、腕組みしバイクに寄り掛かり立つ元親の姿には目を瞠った。

「元親、」
「早く乗れ、ほら」

2つあったヘルメットのうち1つを投げて寄越してきたので、慌てて手を伸ばす。
何度か使ったことのあるそれをなんとか受け取ると、被るか否か逡巡した後、口を開いた。

「…なんでいるの?」
「あぁ?来ちゃ悪ィのかよ」

俺も丁度バイト終わったトコだったからよ、あー、気が向いたっつーか、な。
元親はどこか歯切れ悪そうに言ったかと思うと、またあの柔らかな瞳を向けてくる。
胸がとくりと高鳴るような心地を、は覚えた。
だって、彼女は知っている。元親のその言が、誤魔化しきれていない嘘であることを。
元親のバイト先から彼の家までの途上にのバイト先はなく、どちらかと言うなら反対方向に位置していることを。
ーー同じくらいの時間に終わるからって、わざわざ。

「早くしねぇと置いてくぞ」そう言って自身もヘルメットを手にしてバイクに跨る元親に、どんな顔をしているかわからない自分の顔を見せたくないとは素早くヘルメットを被った。
二人乗りは初めてではないにせよ、元親のあの言葉を受けてからこうして後ろに乗るのは初めてだ。
どこか照れくさいのを隠すように「くれぐれも安全運転で頼むね」と言ってバイクに跨ると、元親はわかってらぁ、と振り向かずに笑い交じりで返してくる。

「しっかり掴まっとけ」

エンジン音を背に言う元親の言葉に、ふと思い立ったは、今までしてきたように肩に掴まるのではなく、鍛えられたその身体に腕を回してみた。
予想外だったのか、元親はぴくりと肩を揺らす。
必然的に密着する互いの身体の温度が、薄ら寒い空気の中で心地良い。
この温かさが体温に限った熱でないことを春物のコートで覆われた肌で感じながらは息を吐く。

…もう、いいかなあ。なんて。

やがて動き出したバイクの上で固めた決意は、幾つか目の信号待ちのときにを後押しした。

「ねえ」
「あ?なんだ?」

エンジンの音に掻き消されないよう、大きめに出した声は、自身でも思った以上に晴れやかだ。

「慶次と孫市と4人で出掛けようって話、聞いてる?」
「そりゃな。慶次の奴が思い立った瞬間に俺もいたからよ」
「行こうかなと思って」
「そいつは何よりだ」

信号の色が変わると、バイクは再び風を切り出す。さすがに会話には適さない風の音の中、は少しだけ、元親の身体に回した腕の力を強めた。

だから、もうちょっとだけ待ってて。

言葉にしないの声に応えるように、元親の熱を持った手がの手に触れた。

熱いくらいのその熱に、返す言葉はもう決まっている。