常ならばこの任は彼女のすべきことだ、と三成は心中で毒づきながら、彼は尊敬する上司たる竹中半兵衛の執務室の扉の前に立った。その彼女が見当たらないのだから、代わりに三成がその役目を果たさなければならないのも彼は十分理解している。

コンコン、と鋭いノックをして「半兵衛様」と部屋の主の名を呼んだ。
いつもならばすぐに入室を許可する返事が返ってくるのだが、今はそのダークブラウンの木目調の扉の奥は沈黙している。
席を外されているのだろうかと三成が思案した矢先、その扉は彼が知るよりも幾分か穏やかに開いた。
再び半兵衛の名を呼ぼうとした三成に、「しーっ」と幼子を諌めるような声がかけられる。
自ら部屋の戸を開けた半兵衛は、口の前に掲げていた人差し指で部屋の中をちょいと指さすと、困ったように微笑んだ。
静かに戸が閉められる前、三成の目に入ったのはソファに座り大人しくしていたである。何処に行ったかと思えば、と呆れと怒りを同時に抱くが、思い起こしてみると彼女が姿を消すとき大抵行く先はここだった。

「寝てるんだ」

半兵衛が静かにと示したのはこのためか、と思った矢先、三成の頭に疑問が沸き起こる。何故なら今は定時外でもなければ休憩時間でもない、真っ当な会社員であるなら職務に打ち込まねばならない勤務時間中である。

「何故、」
「いや、僕が許可を出したんだよ。昨晩僕の仕事に遅くまで付き合わせてしまったから」

だからといって、いいものだろうか。
なんとはなしにそう思うが、許可を出したとまで言われては、三成には口を挟むことはできなかった。
彼の尊敬する聡い上司は、幼馴染の彼女にだけはどうも甘いようであることは、さすがの三成も気付いている。
しかしそれに気付いたのも、三成自身の心情の変化によるためであるとまでは、思い至っていないようであった。

「ところで、何の用だったかな」
「は、御客人がお見えです。先に応接室へと案内させています」
「そうか、ありがとう。今から行くよ」

半兵衛に促され簡潔に用件を述べると、三成はちらりと扉の向こうに意識を向ける。
それに目敏く気付いた半兵衛は、応接室へと足を向けながら事も無げに言った。

「ああそうだ、15分という約束をしてたから、数分経ったらを起こしてくれるかい」
「は…」

肯定の返事とも疑問の声ともつかぬ声を三成がぽろりと零したのを横目に、半兵衛は「頼んだよ」と言って去っていく。
ひらと挙げられた手が見えなくなってからようやく状況を把握した三成は、半兵衛の命に背けるはずもない。腕時計に目をやり「数分」の目処をつけると、意を決して扉の前に立った。

もしかしたらもう起きてしまっているかもしれない、と思い三成はかつて意識したことがないほど静かに執務室の扉を開ける。
扉の先にはつい先程見た光景と同じ状況が広がっており、三成は無意識のうちに安堵の息をそっと吐いた。
ソファの背もたれに背を預け相も変わらずすやすやと眠るは、普段の賑やかな様子からは程遠い。
彼女のころころと変わる表情に合わせて煌めく瞳も、今は伏せられた瞼に隠されている。騒がしくも心地の良い声で言葉を紡ぐ唇は、ゆるく閉ざされたまま開かない。
微かながらも規則正しく三成の耳に届く寝息に慣れず、そこはかとないむず痒さを三成は覚えた。
常日頃から隙だらけではあるが、ここまで無防備な姿には出会ったことがない。

三成はの頬に手を伸ばしかけて――止めた。何故自分の手が伸びたのかも、いまいち理解ができなかった。
行き場の無い手を下ろし、ふと思い出して時計に目をやると三成が自分で目処をつけた「数分」が過ぎていることに気付く。
ついさっき躊躇って引いた手で彼女の肩を軽く揺すると、彼女の睫毛がふるりと震えた。

「…おい、起きろ」
「ん…」

気が付いた様子のを見て三成は肩から手を離し、彼女の動向を見守る。
やがて猫のようにこしこしと目をこすり始めたはふあ、と大きくあくびをした。

「ん〜…ごめん半兵衛、私どれくらい寝て……」

「た…」と口から出る頃には、彼女はしっかりと三成の姿を認識し、何故ここにいるのかと言わんばかりに驚き惚けた顔をする。
その顔はあれよと言う間に焦りに満ちて、三成が気付いたときには耳まで赤くなっていた。

「なっ……、なんで、三成が」
「…半兵衛様は御用事のため出られた。私は代わりに貴様を起こす任を賜っただけだ」

あわあわと視線を泳がせるは、三成の声音が柔らかなことには全くもって気づいていない。
寝ていたところはおろか、寝ぼけ眼で大あくびをしたところまでばっちりと見られたという羞恥の中では、それも致し方なかった。

「目覚めたのならば即刻職務へ戻れ。怠慢は許可しない」
「う……はぁい…」

三成が小言を降らせると、赤くなっていたの顔はさっと血の気が引いた。いくら半兵衛の許可の下とはいえ、勤務時間中に眠っていたことは後ろめたいのだろう。
フン、と鼻を鳴らして踵を返す三成の背に、彼女は彼の名を投げかける。「なんだ」振り向きざまに言う彼の声音は、やはり穏やかなままだ。

「…寝顔は忘れて?」
「……くだらん」

眉を下げてはにかむの顔を見て、三成はつい先ほど見ていた寝顔を思い浮かべる。伏せられた目に、開くことのない唇。
調子が狂う。三成は率直にそう思った。
その目に自分を映し、名を呼んで欲しいと願った自分が気に入らない。
起きて早々変えてみせた表情が、やはり好ましいと感じた自分が、気に入らなかった。

「…行くぞ」
「はーい」

何より彼女が究極の無防備を晒したのが半兵衛であることに幽かな不満を抱いた自分が、一番気に入らなかった。

(…申し訳御座いません、半兵衛様)

胸中で謝罪を述べながら、足早に仕事へ戻っていく三成を、があわてて追っていく。
二人がお互いに歩み寄るのは、もう少し先のことらしかった。