彼女には嫌いな色がある。







空、海、地球を想起させるその色を、彼女は心から嫌っているわけではない。
澄んだ空を見れば気持ちがいいと思うし、日に当たってきらきらと輝く海は眺めていて飽きない。地球を実際に外から眺めたことは彼女はなかったけれど、美しいと賛美する者は多いし、テレビや写真で見るだけでも神秘的だと思ったこともある。
そもそも彼女の瞳も髪も、深い青であったし、むしろ彼女にとって青は好ましい色でもあった。
彼女が嫌いな青はただひとつの青で、それは澄んだ空のようでもきらめく海のようでもあった。
どこまでも自分を見透かしてしまいそうなそれが、彼女は嫌いだったのだ。


は飲んでいた清涼飲料水のペットボトルをふと見つめて顔をしかめた。ああここにも青。握りしめるとぱきりと音をたてた。

鮮やかな青から目を逸らしても、青はそこかしこに存在してを惑わす。こんなふうに思うようになってしまったのは、いったいいつからだっただろう。

「やけにぼーっとしてんじゃねーか。もう暑さにやられたんでィ?」

クラスメイトの沖田総悟が、そう言いながらの前の席に腰を下ろした。まだギリギリ冬服期間の5月だというのに、最近は半袖で過ごすのがちょうどいいんじゃないかというくらいの暑さで、長袖の制服を着用する義務のある生徒たちはどこかぐったりとしている。
沖田を見ると、彼は学ランを脱いでいつも着ているTシャツ姿になっていた。これも嫌なくらい、鮮やかな青だった。

「涼しそうでいいね」
「まーな」

私服みたいになってるけど、とは付け足した。ちげーねェ、沖田が短く返す。
沖田は持っていたパックジュースを音をたててすすると、時間割表のほうを一旦見てからまたこちらを向いた。

「お前、アレやってきた?和訳」
「うん、まあ」

そうしてが机から英語のプリントを出そうとしたとき、彼女を名を呼ぶ大きな声があった。

〜!!」

目をひく紅梅色の髪と、瓶底メガネが特徴のクラスメイトの神楽が後ろのドアからの席まで駆け寄ってくる。神楽はの前に座る沖田を見て唾を吐くように「けっ、」と小さく言うと、改めてに向き直る。

「次の時間、当てられたら助けてほしーアル…」
「あー、そっか、当たりそうだね、神楽ちゃん。うん、いいよ」

キャッホオオオと神楽は甲高い声を上げると、に抱き付いた。
「宿題くれー自分でやれってんだ、」「何アルか」相変わらずの仲の悪さを発揮する2人を横目に、は神楽をちらと見る。
ころころと表情を変える神楽の瞳は、の苦手な青にとてもよく似ていた。けれどやっぱり、何かが違う。
昼休み終了を告げるチャイムが、もうすぐ鳴ろうとしていた。





「やっ」

その声を、その姿を見ては溜息をついた。
なんとなく、学校にいるときから予感はしていたのだ。
毎回と言っていいほど、バイトのときにの前に現れる彼が、むしろ来ないわけがないのだと。
あと少しでバイトも終わり、このまま彼に――神威に会わずに帰れるとは僅かに期待していたが、その期待も無残に砕け散ってしまった。
は不本意ながらも、カウンター越しに力なく「いらっしゃいませー…」とお決まりの文句を述べる。
ニコニコしながらに話しかけてくる神威に、まるで会いたくなかったとでもいうように返す
これは大抵恒例のことになりつつあり、互いに気にしているわけでもなかった。
彼らの間の会ったときの挨拶は、だいたいこうだったからだ。
思えば彼らの関係は、出会った中学のころから大きく変わってはいない。

「とりあえずコレ、返却で」
「はい」

そう言って渡されたレンタルDVDの返却手続きを手際良くしている間、彼女の嫌いな色が少しだけ現れた。気付かないふりをするものの、やはりどうも居心地が悪い。

「――はい、ご返却ありがとうございます」

事務的なセリフをつらつら言ってが神威を見ると、青はもう姿を隠していて、はどこかほっとした。
そう思ったのも束の間、また姿を現した青ふたつが、じっとこちらを見つめている。
は息を呑んだ。
ーーこれだ。これが苦手なのだ。
の心の奥の奥まで見透かしてしまいそうな、澄んだ青い、ニコニコと笑っているときには見えていない彼の両の瞳が。
神楽の兄であるのだから、似ていると思うのも当然なのだが、はとりわけ、神威の瞳だけが苦手だった。

「ねぇ」
「な、何」

思わず口ごもる。
相変わらず、何故この瞳が苦手なのかが、にはわからなかった。
長い間、それこそ中学のときからの縁であるのだから、見たことがないわけではなかったのに。

「あとどれくらいで終わる?」
「え?えーと…あと1…6分くらいかな」
「じゃ帰り送ってくよ」

こういうときこそいつものあの笑みでも貼り付ければいいのに、神威はそれをしなかった。
彼は彼女の答えが悪いものでないとわかっているかのように、その答えをの瞳の奥に見るように、ただ黙ってその青の両目でを見つめた。

その確信しているかのような瞳が苦手だ。
きっとこの瞳は、私の知らない感情まで浮き彫りにしてしまう。

はいつも、神威の瞳を見る度そんな不安に駆られる。
精一杯強がって返しても、神威はおそらくそれも見抜いてくるのだろう。

「…っ勝手にすれば」
「うん、そうする」

の言葉を受けて、青は姿を隠した。
からしてみれば、なんだか負けたような気分になって面白くない。
何より気に入らないのはーー毎度毎度、結局は神威のことを突っぱねることができない自分だった。
他のお客さんもいるんだからさっさとそこどいて、と半ば八つ当たりのようにが言うと、彼は笑顔を崩すこともせずにはいはい、と言いながら彼女の前から退く。


「なに」

まだ何かあるのか、と苛立ちまじりにが神威のほうを向くと、再び青とかち合った。
しまった、油断していた。まともに見てしまって、思わずの動きが止まる。


「後でね」


僅かながら優しげに細められた青は、その後に残された業務に支障をきたすほどに、彼女の心を静かに掻き乱した。


やっぱり青は、まだ好きになれそうにない。