※「アンドロメダを迎えに」の続き
※文字書き・絵描きワードパレット(@kouduki_haru様)より
 D黄昏 「薄闇」「また明日」「影の差す笑顔」














昔から、静かにじっとしているのは苦手な性質だった。
学校で執り行われる式典とか、本に夢中になっている幼馴染のそばで勉強を続けることとか、体調を崩して寝込み続けることですら。
ちゃんとしなきゃ、邪魔にならないようにしなきゃ、大人しくしていなきゃ。
そう思って知らず知らず息を潜めるうちに、身体のどこかがむず痒くなるような感覚に襲われる。
そんなときは、目の前の彼がいつだか教えてくれた【沈黙は金、雄弁は銀】という海外のことわざを思い返して耐え忍ぶのだ。
といった話を他ならぬ彼にしたことがあるが、「それ、意味違うと思うけど」と呆れた視線を返された。

――何も語らず黙っていることは、多くを語るよりも価値がある。
雄弁であることも大事だが、黙るべきときを見極めるのがもっと大事。

確か本来は、そんなような意味だった。幼馴染に間違いを指摘されて改めて調べたので、なんとなく覚えている。
だけど私にとっては本来の意味が大事だったわけじゃなく、共に育っていく中で絶大な信頼を寄せてきた幼馴染が、静かにじっとするのが苦手な私に"黙る"ことに意味を与えてくれたことが大事だったのだ。

でも多分、"黙るべきとき"は今じゃないことも、ぼんやりと理解していた。


真向かいに座る幼馴染の彼――半兵衛は、頬杖をつき至極楽しそうな笑みを浮かべている。
その顔を正面から見ることもできずに、間にあるテーブルの淵を眺めながらどう切り出したものか考えあぐねていると、にこにことした笑顔はそのままに向こうが口を開いた。

「借りてきた猫みたいだね」
「誰のせいだと、」

「僕が君に好きだって言ったから」


揶揄うような物言いに反論しようとした矢先、返された言葉に図星をつかれて閉口する。
その様子をこれまた愉快だと言わんばかりに笑ってくれればよかったのに、真実を語るときのような揺るぎない瞳でこちらを見つめるものだから、冗談言わないでと茶化すこともできない。
そもそも冗談ではなく――昨日起きた事実を改めて口にされているだけなのだが。


つい昨日、幼馴染に告白された。


昨日起こった出来事は決してそれだけではなかったが、その他の出来事を記憶から吹っ飛ばす勢いの衝撃的な事件といって差し支えなかった。
20年近い付き合いの幼馴染であり、兄妹のようであり、はたまた悪友かのように思っていたはずの半兵衛から出た「好き」は、一晩経って夢だったのではと思いもしたが、「また明日」という約束のもと待ち構えていた半兵衛自身によって現実だと突き付けられた。
昨晩は日付が今日になって数時間経ってからベッドに入ったものだから、朝日の眩しささえ煩わしくて二度寝を決め込もうかと寝返りを打ったのに、母の「半兵衛くんが待ってるわよ」という朝の挨拶に続いた二の句に慌てて飛び起きたのだ。
適当に引っ張り出した服に急いで着替え、最低限の身支度を整えるために洗面所に立つと、泣きはらした翌日のひどい顔の女が鏡に映るかと思っていたが、昨日寝る前の顔より思ったよりはましな顔で少しだけ胸を撫で下ろした。
ベースメイクを終えた後、目元の化粧をしようと瞼に触れて、不意に昨晩の光景がフラッシュバックする。
幼馴染で兄のようだと思っていたおとこのひとの、やや冷えた細長い指が頬から首のうしろへ滑り、反対の手が前髪をはらったあと、瞼をかすめたやわらかな感触。
一連の動きの間ぎゅっと閉じていた目を開けば、薄闇の中で藤色の瞳がやさしくこちらを覗き込んでいて――
そこまで鮮明に思い出し、ぶわっと血液が逆流でもしたかのように熱が顔に集まった感覚がした。
チークも入れていないのに頬はおろか耳まで赤くなっているのを鏡で確認してしまい、余計に気恥ずかしくなる。
ぱたぱたと手で顔を仰いでいると、「まだなの? あんまり待たせるんじゃないわよ」という母の声がしたので、手早く眉を整え薄い色のリップだけ塗ってメイクは切り上げることにした。
昔からの付き合いな上、泣いてぐちゃぐちゃの顔を見られてすぐ翌日である。多少メイクが適当だって気にしないだろう、たぶん。
それよりも長く待たせるほうが悪手な気がして、髪もいつものように整えて家を飛び出した。

「おはよう。といっても、もうすぐ11時だけど」
「…おはよう」

我が家の門柱に寄りかかって立っていた半兵衛が、私の開けたドアの音に気付いて振り向く。
その顔は憎たらしいくらいいつも通りで、気まずい思いをしている自分が間違っているのではと思わされるほどだった。

「ブランチにでもしようか。まだご飯食べてないだろ」


そうして連れてこられたのが、家から徒歩10分くらいの位置にあるこのオープンカフェである。
歩いている間、特に何を話すでもなく(というか私は何を話すべきかわからないまま)、目的地まで二人のあいだには沈黙が落ちた。
歩いていたので「じっとしている」には入らないものの、苦手な空気には変わりがない。
テラス席に案内され、どう口火を切るかと考えあぐねていたところで――半兵衛が例の通り口を開いた。
借りてきた猫。ふだん大人しい部類ではない故に、半兵衛からしてみるとその様子が一層面白くうつるらしい。

『君が好き』

終電を逃した自分を迎え送り届けてくれた車の中で、半兵衛が言ったことばをまた思い出す。
そして同時に蘇る、鏡の前で思い出した感触。やさしく触れる、今まさに頬杖をついているその手。
思い出しているだけなのに、顔が熱くなりかけてぎゅっと目を閉じる。
くう、と沈黙に耐えかねた腹の虫がついに飼い主に替わり鳴いた。
瞬間、原因の変わった恥ずかしさに火照りはじめた顔を見て、半兵衛はくすくすと笑う。
「何か食べてからのほうがよさそうだね」「…賛成」
こんなときにでも欲求に素直な自分の体に辟易しつつ、子どもの様子を見守るかのような生温い視線にどこか安心する。
いつもなら子供扱いのようでもどかしく思うのに、その"いつも"を恋しく思うのだ。
彼の瞳が捉えている私は、ただの幼馴染でも妹でも友人でもなく、"ひとりの女"であるのだと思い知らされてしまったのだから。



注文してからほどなく運ばれてきた、ローストビーフと野菜がたっぷり入ったクラブハウスサンドを頬張る。
思い返してみれば昨日の夜も店に入って早々彼氏に別れ話を切り出されたので、まともに食事を摂っていないことを思い出した。
ボリュームたっぷりのそれを夢中になって頬張るうち、私に似てじっとしているのが苦手な腹の虫も満足したらしい。
サンドと一緒に頼んだアイスティーをストローから飲みながらふと視線を上げると、半兵衛が相変わらず小さい子どもでも見守るかのように笑っていた。

「美味しかった?」
「うん。すごく」
「それはなによりだ」

自分は軽く家で食べてきたからとコーヒーのみを頼んだ半兵衛は、言い終えた後に一口だけ飲んだのを機に瞳の色を真摯なものに戻す。
「さて、本題に入るけれど」
食べ終えたはずのサンドイッチが喉につかえたかのように、一瞬息が詰まる。


「返事は考えてくれたかな」


へんじ。半兵衛の言葉の一部だけを切り取って、ぎこちなく繰り返す。
昨晩確かに「明日でいい」と期限付きの延長を認められた答え。
しかし私が家に送り届けられてから寝る支度をする間、あまりの衝撃で思考が追い付いていなかったし(かつ泣き疲れていたのもある)、さっきだって叩き起こされてから慌てて家を出たばかりで、ろくにきちんと考えられもしていない。
一緒にいたのだから私がそんな状態であることを察しているだろうに、悪びれもなくタイムリミットを示してくる幼馴染。
そうして、だてに今まで共に過ごしていない私にもひとつの心当たりがうまれる。
――もしかしなくても、わかった上で?
度々そのしたたかな計画性を指して「策士」と呼ばれることもある彼は、私の心の声に返事でもするように口端をつり上げた。

「……ごめん、まだちゃんと、考えられてない…」
「そんなことだろうと思った」

半兵衛に隠し事が通用しないことは、長い付き合いで身に染みている。
素直にありのまま話せば、驚きもしないがやれやれと言った様子で軽い溜息を零した。

「なら、今ここで考えて欲しい。僕のことをどう思っているか」

彼の右手が、テーブルに置きっぱなしにしていた私の手をそっと取る。
昨日頬に触れたのと同じようにすこしだけ冷たくて、細長いけれど女性よりも節の目立つ指先。
ゆるく握られた私の指先から体温が溶けあっていくかのようにじわじわと熱が移る。
半兵衛と手を握ったのなんて、それこそ小学校低学年ぶりくらいのことで、当時は女の子のようにあどけなかった手も気付けば男性のそれへと成長していたことに気付いたのは、つい最近の話だった。

「…半兵衛のこと、幼馴染として大好きだけど、」

まだ、わかんないよ。昨日振られたことも、ちゃんと整理できてないのに。
偽りのない本心であるはずなのに、半兵衛の想いを無下にしているような後ろめたさがあり、俯きながら言った言葉は私の腿のあたりに落ちる。
拒絶でもなければ、素直に受け止めることもできない。握られた手を振りほどくこともできなかった。

「望みはあると思ってていいのかな」

先ほどよりもわずかばかりの力を込めて手が握り直される。
無意識にぴくりと動いた私の手を咎めるかのように、ぎゅっと覆われた。

「…どうして、昨日、言ったの?」

おそるおそる顔を上げて静かに投げた問いに、半兵衛がすこしだけ目を見開く。
大学時代から付き合っていた恋人と別れて不安定だった昨日の私。(いつもが安定してるというわけでもないけれど)
終電を逃したから迎えに来てと呼びつけて、挙句他の男との別離の悲しさに目の前で号泣した女にどうして。
それに四半世紀にも届きそうな長い間、男女の情みたいなものは私たちの間には存在しなかったはずだったのに、どうして突然。

「腹が立ったんだ」
「…え?」

告白のタイミングについての問いの答えとは思えぬ返しに、思わず聞き返した。

「君を泣かせたあの男に。君を傷つけてきたかもしれない今までの男たちに」

そして、そうなるかもしれないと予測できたのにそれを見過ごしてきた自分に。
腹が立ったというわりに、自嘲めいた響きで影の差す笑顔を見せた半兵衛は、今までにない切なさと悔恨を目の端に滲ませた。
それと。半兵衛は続ける。

「僕は存外狡い男でね」
「…知ってるよ」
「君に付け込むなら今しかないとも思った」

半兵衛らしからぬ面映ゆさを顔に浮かべながら、畳みかけるように言う。


のそばに居続けられる理由を僕にくれないか」


――こんな、乞うような言葉をかつて彼の口から聞いたことがあっただろうか。
半兵衛はいつもーー彼も私もよく知る同級生や部下などの周りに対して請われるばかりで、許可を与える側であるのに。
いっそう力強く握られる左手と、ほんの少し寄せられた眉根と、見逃してしまいそうなくらいの色づいた頬。
昨日からずっと、知らなかった顔の彼ばかり見ているような気がした。
20数年一緒にいるはずなのに見たことのない表情を立て続けに見ているが、不思議とそれだけ一緒にいた自分だからこそなのだとすんなり腑に落ちて、嫌な感じはしない。

「…理由なんて、今更必要ないのに」

付かず離れず、ずっと今までお互いを心の真ん中に近いところに置くのが常だった。
家族のようで、親友のようで、だけど恋ではないのだと2人とも疑ってこなかった。
互いのそばにいる理由なんて、"大切な幼馴染"の他にいらないと思っていた。
自分にとっての事実をそっと口にして、まるで告白の断り文句に聞こえてしまったかと危ぶんで半兵衛のほうを見る。

「…いるよ。僕のそばに君がいるのが当然なんだって、誰にでもわかる大義名分が必要なんだ」

そうしたら、君を中途半端にしかわかってない奴に傷つけられて泣くこともないだろ? 半兵衛はうすく笑った。

「……半兵衛がそんなに私のこと大切に思ってくれてるの、知らなかった」

半分本当で、半分嘘の言葉だった。
言った内容は茶化すような言葉だったが、その響きは冗談の色も乗らずに私と半兵衛の間に静かに落ちる。
昔付き合っていた女の子よりも何故か私との時間を優先にしているのは知っていた。私のあずかり知らぬところで一方的に恨みを買って、ややこしい事態に巻き込まれたこともある。
そして終電を逃した私を理由も聞かずにすぐ迎えに来てくれるくらい、過保護にしているのも勿論身に染みて知っていた。
でも、それがどういう意味かまでは、知らなかった、というか半兵衛自身もわかっていなかった、はずだった。

「20年くらい前から、僕にとって大事な女の子は君しかいなかったよ」

そう言いながら親指で私の手の甲を撫ぜる。
その動きは波立つ私の心を宥めるようでいて、半兵衛自身の微かな手の震えを宥め誤魔化すようでもあった。
"友愛の意味"で"大事な女の子"ではないことは、昨日の半兵衛の言葉が否定している。
半兵衛の、そして私の勘違いでもない。改めて理解して、紡ぐ言葉が見つからなくなった。

――なんか、思ってたのと違った。
昨晩まで恋人であった男の言葉がフラッシュバックする。
ありのままでいられる相手だと思い込んでいただけで、私がそうあれる相手はずっと近くにいたのに。
喉の奥が熱くなるようにじんとして、息がつまる。
幼い頃引き引かれた手は、あの頃と同じ思いで重なることはもう二度とない。
手の大きさも感触も、互いの思惑も何もかも変わってしまったのに、たったひとつだけ変わらないと私が自信を持って言えること。
それは今、半兵衛の手を離せない理由でもあった。

「半兵衛のこと、そういう風に好きかは今は答えが出ない、けど」
「けど?」

震える私の言葉尻を掬って、続きを促される。
不安げな顔をした半兵衛の手に静かに力が籠もったのにかまわず、その手を一度ほどいてぎゅっと握り直した。

「…私も、ずっと半兵衛のそばにいたいって思うよ」

対外的な評価は一見いいくせに、性格のねじ曲がった"面倒くさい"幼馴染。
だけど何があっても見捨てたくないと、友にも頼れぬ折にさえ独りにさせてなるものかと思うただ唯一の存在。
そしていつも答えに迷う私を、そばで導いて見守ってくれる男のひと。

半兵衛は一瞬だけ目を丸くしたあと、眩しいものでも見るかのように笑った。

「……君も大概、狡い女の子だね」

今の私に出せる、精一杯の答え。
これ以上語る言葉は今の私にはないけれど、半兵衛ならばきっと黙ることの意味を見つけてくれるだろう。
途中式みたいな中途半端さなそれも、いつかはきちんとした答えに辿り着くはずだという確信が、遠い昔心の奥深くにしまった初恋と共に疼いた。