※おゆ先生作の「冬を送る。春を待つ」と若干リンクしています(単体でも読めます)










いたいのいたいの、とんでいけ。
私がまだやんちゃにあちこちを走り回っては膝小僧を筆頭に脚に傷をこさえまくっていた頃、母がよく唱えてくれたおまじないだ。今思い返してみれば、気休めにしか過ぎないとも思うけれど、「病は気から」とも言うし幼いときの自分にはきちんと効いていたのかもしれない。
けれど知ってか知らずか、もっと有効なのではないかと幼心に疑問に思っていたものがある。
それは隣の家の幼馴染がよく施されていた、母と呼ぶには若く美しい見た目の女性が声も出さずに使う魔法だった。
母親似の外国の絵画のような容姿を神に羨まれたのか病に好かれやすい体質の幼馴染は、外で元気に遊ぶよりもベッドとお友達であることが多かった。
大人になってから私を咎めるときのそれと同じくらいの深さの溝が眉間に刻まれ、もともと白い肌からさらに血色が失せる。
「うつっちゃうから近寄っちゃダメよ」
私の頭をひと撫でし、優しく諫める幼馴染の母の手はいつもピアノを軽やかに奏でるときのようにしなやかで、自分の母の手よりも幾分か体温が低いけれど同じようにあたたかかった。
彼の部屋のドアの前から、そっと様子を盗み見る。
ベッドの主は私が見えているのかいないのか、ぼんやりと視線をこちらに寄越してから傍らにいる母親へ視線を移し、苦しそうに目を伏せた。
彼の母はやがて彼の額に口付けをひとつ落とす。
――すると幼馴染の眉間から、すっと皺がほどけて消えるのだ。
傍目に見て明らかにつらそうな寝顔が、少しだけ穏やかになり彼の周りの空気だけ一瞬で澄んだかのように。
魔法みたい。
幼心にそう思ったのを覚えている。
自分が負った擦り傷なんかよりもずっとじわじわと体を蝕む呪いをあっさりと追い払ったかのように、その瞬間だけは幼馴染は安らかな様子で眠るのだった。


さてその幼馴染がどうなったかと言えば、成長して身体が強くなったかと思えばそうでもなく、病に慣れはしたものの"仕事中毒"なんて新しい病を患ったもんだから、少々無理をして病を呼び込む――なんてことがそれなりにあった。 基本、外面は眉目秀麗、頭脳明晰で通っていて社会人としてもそれなりに成功している、所謂"優良物件"……らしいのだが、それは一見してみればの話。 成長するにつれてすっかり性根がひねくれてしまった半兵衛はなかなかに手を焼く曲者で、好条件につられたように近づいてきた女性たちはあっさり心(プライドと言うべきか)を折られ、離れていった。
私はといえば昔のお転婆はある程度なりを潜め、まあそれなりに大人への一歩を踏み出したものの、半兵衛やら同僚やらにダメ出しされながら日々を過ごしている。
つまるところ結局今もそばにいて――彼の母に代わって病のときに世話を焼くまでになった。


看病まがいのことを最初に始めたのは、確か高校生のときだった気がする。
体調を崩したと彼の親友から報せを受けて、またか、と思っていたら授業中に「そういえば彼の両親は数日留守にすると母が言っていなかったっけ?」とふと思い出してしまった。
完璧なように見えて、実は自分を疎かにするきらいがあったよな、とこれまでの付き合いを思い返して、その日の授業はほとんど頭に入らなかった。
急いで帰宅し母にあれこれ必要なことを聞いてから家に突撃したことは、今でもはっきりと覚えている。
まだ辛そうな身体を引きずって玄関を開けた彼が、かつてない表情で驚いていたことも。
あの時は自分も看病初心者で、おかゆだって母が夕飯の支度の合間に作ってくれたもので、さすがにちょっと申し訳なかったというか、悔しかったというか。
胸を張って幼馴染の力になれる場面がようやく巡ってきたというのに、私はまだ力不足だったのだ。

結局高校のときはその1回きりで、大学入学と同時に彼が家を出たのを機に数年間やや疎遠になったので、リベンジの機会がやってきたのはもう少し後になってからのことだった。
またもや秀吉さんから「半兵衛が体調を崩したので様子を見てやって欲しい」と連絡を受け、言われるがまま看病に赴いた。
しっかりしているものの、自分の生活のこととなると独自のルールを適用している節があるくせに、それでいて強がりだから、他人には弱っているところは見せまいとする。
心許した親友である秀吉さんにすら、どんなに付き合いが長くなろうとも見栄を張りたがるのが半兵衛という男なのだとわかった上で、彼は私を呼んだのだろう。
秀吉さんだっておそらく半兵衛の不調には気付いていて、本人にそれとなく声をかけたはずなのだ。彼は優しいし、(年数だけで言うなら私には及ばないものの、)長い間一緒に過ごしてきた経験から隠そうとしても滲み出る半兵衛の不調のサインを感じ取ることができるから。(事実、高校のときにもそんなやりとりを目にしたことがある。)
きっと問題ないよと幼馴染が返したから、強がる彼の気持ちを汲み取って深く追求しなかったのだ。男の友情とは思ったよりも難しいものなのだなあと、秀吉さんからの電話を切った後おぼろげに思った。


そして今日も、幼馴染兼恋人が人生何度目か(と、いうのを数えてもキリがない)の風邪でベッドに沈んでいるから看病のためにこの部屋に入った。
――はずなのだが。

「あ」
「ちょっと、何で病人がベッドの中でパソコン開いてるかな」

見つかった、と半兵衛が驚きに目を見開いたのも束の間、すぐにやや気怠げな視線に戻り手元のノートパソコンに向き合う。

「株価が見たくて」
「体調不良をおしてまで?」
「おかしなことを訊くんだね。会社を大きくするため、ひいては君を養うための資金なのに」
「……誤魔化そうとしても無駄だからね」

ヘッドボードに寄りかかるようにしていた半兵衛はちっ、と大層わざとらしい舌打ちの後、ノートパソコンの天板をぱたんと閉じた。
没収。持っていたトレーを側に置き手の平を差し出せば、そこに私の手がくるとわかっていたかのようにノートパソコンがおさまる。
それを一度回収してから、もう一度手を差し出す。ん、と言葉とも言えない音を投げてみると、渋々といった様子で反対側のベッドサイドに置かれていた携帯電話が手渡された。まだあるでしょ、見逃さないよ私は。言外に伝えたかったことは、私たちが幼馴染の長い付き合いであるが故かそれともこういう機会が多かっただけ故か、きちんと伝わったらしい。
まあ、それと半兵衛が納得しているかはまた別の話で、反抗心の現れか携帯電話を手放すまでの掴む力が強かった。

「……もう少しかかる想定だったのに」

何が、と尋ねる前にサイドテーブルに置いたトレーに乗る茶碗へと視線が落ちる。
ついさっき作ったばかりでほのかに湯気の立ち上る大根ときのこを入れた卵粥。

「私だって成長してるんですー」

それこそつい数年前までは、半兵衛が予想していた通り調理にもう少しばかり時間がかかっていたお世辞にも料理は得意ではない私だけれど、人並みに料理ができるようになりたいと思っている。
それも自分にとって大事な人のためにできたほうが良いと思っていたのだから、なおさら。
(初めて半兵衛におかゆを作ったときの感想が「…病院食よりはマシだね」だっただけに、絶対に見返してやるのだと心に誓ったものだ。)
だからこそ勇んで料理のレパートリーとして加えようとしたのもおかゆだったし、頻度が頻度なだけにアレンジレシピも覚えるようになった。

いただきます。茶碗片手に半兵衛がそう呟いて卵粥を口に運んだ。ゆるく咀嚼され飲み込まれた今日のおかゆは果たして何と言われるのか。

「…なるほど」
「え、なにが?」
「自分で『成長してる』と言うだけあるなと思ってさ」
「でしょ」

ふふんと得意げに笑ってやれば、「何それ」と吹き出すように笑われた。
あ、よかった。笑う元気はあるみたい。


あの2度目の看病の折、もろもろ一段落して彼の寝顔を見ながらふいに腑に落ちたのを覚えている。
――おそらく今後、私しか半兵衛の面倒を見てやれる人はいないんだろうな。
そうして胸に去来したのは、えも言われぬさみしさだった。
親を除いて、付き合いの長い幼馴染以外に弱みを見せられる相手がいないなんて。
共に歩もうと心に決めていたはずの優しい親友にさえ、曝け出すことができないなんて。
相当弱っていたらしい半兵衛が、虚勢をはるのも忘れて「ありがとう」と眠る寸前に言ったとき、嬉しいより切ないような気持ちだったのも、その寂しさからだったのかもしれない。

――半兵衛は、さみしいって思う事、あるの。
いつだったか、そう問うたことを思い出す。
私を置いていく側だったと思っていた彼は、ベッドの中ひとり取り残されていくのに何を思っていただろう。
変動する株価を逐一見ていないと自分を取り残して周りだけ時間が進んでいってしまうような、そんな恐怖に苛まれていなかっただろうか。
半兵衛が魘されているのを不安がる私に、自分が置いていかれる恐怖に蓋をして「ごめんね」と呟いたあの日の幼い彼は、人知れず孤独を抱えていたのではないか。


でももしかしてあれ、甘えてたのかな。珍しく。
一人用の小さな土鍋を片付けながら、数年越しに素直な礼の理由に思い至る。
あの時は互いに互いのコミュニティがあって、それこそ恋人だっていたはずなのになお孤独を抱え込む彼がどこか可哀想で、そこまで思い当たらなかった。
そして同時に気付いたのは、かの女性が使っていたおまじないのことだった。
あれは魔法でもなんでもなくて、そんな彼に「さみしくないよ、そばにいるからね」と、伝えるための手段に過ぎなかったのだ。

今空腹が満たされて眠くなったらしい彼の寝顔を眺めてみても、あのときのさみしさはやって来ない。
今後も半兵衛の面倒を見るのは私で、それを誰かに譲る気もない。
想い合うようになってから湧いた小さな独占欲は、まるで最初からそこにあったかのように私の胸に馴染んだ。

ベッドの側に近寄ると、大人になってからはやや癖になりつつある眉間の皺が目に入る。

――今ならば、もしかして。

おまじないのからくりが自分なりに判明した今ならばと、子どもじみた悪戯にも似た想像がよぎる。

そっと額に貼られた冷却シートの上から口づけを落とすと、ひんやりとしたジェルを覆う繊維質のかさついた感触が唇に触れた。
まだしばらくは交換しなくても大丈夫かなとその感触を頭の中で事務的に処理しながら、眉間の皺は消えたかと様子を伺う。
瞬間、目を丸くした半兵衛と視線がぶつかった。

「お、起きてたの」
「……寝る寸前だったよ」
「ごめん起こしちゃったね、私向こう行ってるよ」

恥ずかしさのあまり思わず後ずさり、早口で宣言しその場を離れようとした矢先、平時より熱い手のひらが私の手首を捕らえる。

「……しばらくいてくれよ」
「え、や、ええと」

自分の行動を顧みて大胆さに羞恥を覚えるのに必死で、半兵衛が素直にそんなこと言うなんて、とからかってやる余裕もない。
おそらく熱のせいで(多分それだけじゃないけど)顔の赤い半兵衛と対照的に、至って健康体のはずの自身の顔も彼の手のひらと同じくらいにあつい。

「僕だって寂しいと思うときくらいあるんだ」

そう言われてしまえば、大人しくベッドサイドに腰を下ろすほかなかった。