「捨ててくれてもよかったのに」


百年の恋もさめる、というのはまさにこういうことを言うのだろうと、は頭の片隅にひらめいた。
いま、この男はなんと言った?
あまりにも驚きすぎて、常ならばひとつ年上であろうが遠慮なしに投げていたであろう「は?」という一音すら出ない。

年の瀬も近付いてきた12月。
クリスマスを控えた思春期真っ盛りの中学生のなかには、少し背伸びをして友達や家族ではなく好きな人と過ごしてみたい、という思考にたどり着く者もいた。
その前に思いを成就させなければという第二の思考を自然に得るものの、それを行動に移せるかといえばまた別の話である。
そんな中、一歩踏み出し淡い恋心をしたためるべく筆をとった彼女の勇気を、仲の良し悪しにかかわらず、は同じ女子として尊重したいと思っていた。
けれどいまひとつ踏み込めなかったのか、その手紙を自ら渡すのでもなければ下駄箱に入れるなどの手段を講じて手に渡るようにするでもなく、自身に託してきたことに関しては――いまいち納得していない。
中学に上がってこの方、は隣に住んでいる幼馴染とはどういう関係なのか、どんなタイプが好みなのか、彼が明かそうとしないあれやこれやを知っていると見て声をかけられることが多くなった。
実際、幼い頃から一緒の時間を多く過ごしているでさえも、彼のことを全ては知り得ていない。
意中の相手ができたなどとわざわざ報告するようなことはお互いないし、そもそも恋愛に関する話題をちらりと出そうものなら色のない視線を寄越される。
興味がないんだ、そういうの。
まだ仮にもランドセルを背負っている時分であったのに、心底面倒だというように返されたのを覚えている。
「彼は恋に興味がない」という情報はあるものの、それに限らず彼は自分の情報を勝手に話されることを良くは思いはしないので、は大抵「そういう話題はしたことないなあ」と苦い笑みと共に返すのだ。
彼のその愚痴にも似た言葉から、数年経った。の預かり知らぬところで新たな友達を得たように、心境の変化があってもおかしくはない。


…とも思っていたが、そんなことはなかった。それどころか、むしろ悪化しているような気さえする。
淡い想いの郵便屋を(渋々ではあるものの)引き受けてしまったがその務めを果たすべく彼の元へ来て放たれた言葉が先のそれである。
数拍おいてようやく口を開いてみれば、想像していたよりもずっと冷たい声が出た。

「……それはないんじゃないの、半兵衛」
「おや、その子のほうを庇うんだ。望まない役目を引き受けていたように見えるけど」

手紙の主の意中の相手――竹中半兵衛は、書き物をしていた手を止めてほんの一瞬丸い目を向けてくる。
ふっと笑う彼は、の手の中にある手紙のことよりも、わざわざそれほど親密でもない相手からの手紙を運んできた幼馴染の心理のほうに興味があるらしかった。
「いいから、受け取るだけ受け取って」再びペンを走らせた半兵衛のノートの上に、半ば叩きつけるようにして手紙を置く。
パステルカラーの柄入りの封筒は、半兵衛の整った字の羅列の中でやけに浮いて、すぐに字の持ち主に掬い上げられた。表、裏、確認したのち、机の隅へと追いやられる。
ちょっと。咎める声色を気にするでもなく、また彼の視線はノートへと戻った。
これ以上、半兵衛の関心を手紙へ向けることは今の自分にはできないと判断したは、最低限の役目は終えたと自分の説得にかかる。
確かに半兵衛の手元には渡った。差出人にリアクションを聞かれた際の言い訳をぼんやりと考えていると、またバッサリと斬りつけるような一言が飛んでくる。

「返事はしないから」
「……へ?」
「目は通すけど、それだけだよ。自分で来られないようじゃね」

…断るくらいはしなよ。
顔もわからない相手にかい? 悪いけど、僕も暇じゃあないんだ。見ればわかるだろ?
半兵衛が握るペンからは軽やかにいくつもの数式が紡がれている。彼が年明けに高校受験を控えていることなどでなくとも百も承知だったが、告白を断るのに時間を割いたとして、彼の学力になんら響くことはないだろうに。

「…もういいや。とりあえず、渡したから」
「はいはい、ご苦労様」

踵を返しながら、どうして皆こんな男を好きになってしまうんだろう、と率直に思った。
頭脳明晰、眉目秀麗。絵に描いたような秀才だけれど、病がちなところだけが玉にキズ。対外的な評価は、だいたいこのようなものが多い。
しかし長い間近くにいてが問題だと思っているのは、病を拾いやすいその体質などでは決してなく、もっと根本的な、そのねじ曲がった性格のほうである。
見た目の儚さと本人の世渡りの上手さでごまかされがちではあるが、辛辣な物言いは常であるし、好き嫌いだってハッキリしており、「嫌い」に分類されるほうには非道と呼べるほど容赦がない。
外見だけでは圧倒されてしまいがちな、彼が中学に上がって出逢った体躯の大きな親友のほうが、よっぽど多くに心優しく、器も体と同じくたいそう大きかった。(それだけあって、彼にはもう既に心通わせた相手がいるのだけれど。)
ようはにしてみれば、皆に持て囃される幼馴染は、”面倒くさい男”と称するのが一番しっくりくるのだ。

そんな幼馴染とこの先も付き合っていける異性なんて、もうきっと自分くらいのものだ。
そう思っていたは、女性関係においてはことさらに難あり、と呼ぶしかない半兵衛を思って長い溜め息を吐く。最後まで付き合える自信がないうえに、どう考えてもややこしい事態に巻き込まれる可能性のほうが高い。

「…参ったなあ」

腐れ縁からくる情とも憧れの情とも初恋の情とも呼びがたいこの気持ちを、両断する程に認識を超えてくる幼馴染のことを、それでも見捨てたくないと思ってしまう自分も大概面倒かもしれなかった。




―-




あれから10年は経とうとしているのに、は結局半兵衛の傍にいる。
自分が離れられなかったのか、向こうが離れようとしなかったのか、今となってしまえばもうどちらかもわからない。
おおいに問題ありまくりだった半兵衛の女性関係はといえば、一時期は来るもの拒まず去るもの追わずでとっかえひっかえ、かといって本人が付き合った相手にほとんど興味がない故にエスコート以外の接触がないという、男女交際という概念を理解するための実験のようなものでしかない状態だった。自分にはとんと理解できないと悟ると、時間の無駄だとばかりにシャットアウトするわで、この時期のどちらも直接的には関わっていないものの面倒っぷりに拍車がかかっているとが即断するのも必然と呼べるありさまだった。
その間、で人並みに恋人を作ったりもしていたが、自身で振り返ってみても、学生の恋愛の延長線でしかなかったように思う。

やがて年齢的にも将来を見据えた交際が相応しくなった二人が落ち着いたのは、なんだかんだと言いながらもお互いのところだった――といっても、いずれそうなるであろうことは、当の本人たち以外は早い段階で気付いていたが。


「…ねぇ半兵衛、今日が何の日かわかってる?」
「冬期休業前の最後の日曜日だね」
「うんまあ別にそれでもいいけどさ、クリスマスイブだよ? しかも日曜で」
「日曜日なのはわかってるよ」
「いや絶対わかってないよ、わかってたら会社来ないでしょ」
「…あのね、年末は忙しいことくらい君だってわかってるでしょ」

そこで暇そうにしてるくらいなら手伝って。
オフィスにある半兵衛専用の個室でソファにだらりと横たわっていたは、ワーカホリックな恋人の聞き慣れた呆れ声に顔を上げる。
彼が親友と共に起業して数年経ち、彼自ら選んだ有能揃いの従業員も数を増やしつつあるというのに、自分にしかできない仕事が山ほどあると言ってきかない。必然的に残業も休日出勤も増える。
昔ほど頻繁に病に倒れなくなったとはいえ、決して人並みより丈夫になったわけでもない彼が無理をするのを案ずるのは、に染み付いた習慣のようなものだった。
今日だって、別に特別なことは望まないから共に過ごせればなと思ったのに、「会社に行く」などと言うものだから、慌てて支度をして出てきたのだ。
そうしてまんまとついてきた幼馴染兼部下を、上司である半兵衛が労働力として使おうとしないはずがないことも、さすがにわかっている。

「休日手当は出ますか副社長」
「ケーキ代くらいは出してあげてもいいよ」
「…半兵衛がちゃんとケーキ食べて休憩してくれるなら」
「もうしばらくしたらね。はいじゃあこれ」

席から立ち上がることもなく数枚の書類をのほうへと差し出すと、のろのろとソファから立ち上がり書類のほうへ吸われるように歩いていく。
しょうがないなあ。言って紙の束を受け取るの手に、今まで半兵衛がそれを持っていた手が重なる。
ついと思いのほか強めに引かれ、の体は半兵衛のほうへと屈める形となった。
何かと問う間もなく、半兵衛のもう一方の手がの頭へと伸び、やさしく髪を梳いていく。

「よろしくね」

しぐさとは関係なしに、渡された仕事のほうへと言葉が向けられた。ソファでくつろいでいた際に、髪でも乱れていたのだろう。まだ二人とも幼かったころは、こんなことは日常茶飯事だった。
ただ、その手が離れる前に頬を撫で、重なった手がゆるやかに握られるだなんてことは、幼馴染というだけの関係のときにはなかった。

付き合いはじめてしばらく経つものの、未だにこのような折、どうしていいかわからない。
長年連れ添った幼馴染のことを、ほとんど全て理解しているような気でいたはずなのに、あまくやわらかな色を滲ませる目を見るたびに知らぬ人のようでどきりとする。
わずかに熱を持った頬は、冬のあたたかな空調の中では易々と冷めてくれそうになかった。
掴まれた手は、未だ離されない。

「…半兵衛」
「うん?」
「…プレゼント、置いてきちゃった」
「べつに、今じゃなくたって構わないだろ」
「ちゃんと日付変わる前に帰れる?」
「日付が変わったってクリスマスだよ」
「そう、だけど」

こういうとき、ちょっとずれた話をしてしまうのは、の精一杯の照れ隠しなのだ。それだって、彼にはきっとお見通しで、それも含めて甘やかに受け止められる。
同じだけの想いを、返せるだろうか。はいつも、そんなふうに思い悩む。
さりげなく好きだと語る手も、その瞳に滲む熱も、クリスマスだからと用意したプレゼントだって、きっと彼が提示してくるもののほうが価値があって、私はいつも追いつけない。
追いつきたいと、ずっと昔から願っていても、立場が変わったとしてもずっと、一歩先をゆく半兵衛に追いつけるような気がしないのだ。

「心配ないよ、定時くらいには出る予定だから」
「…ほんと?」
「ああ。キャンセル料を払うのはご免だしね」
「え?」

でもそうやって思い悩んでいるとき、手を引いてくれるのも、先を歩く半兵衛だった。彼が選んでくれるその道で、後悔したことはない。

「ディナーくらい連れて行けって、怒られたよ。だから、来てくれるだろ?」

ああでも、こと恋愛に於いては、どちらが先ということもないのだったと、は半兵衛の言葉で思い出した。
すこし困ったように笑う彼をいとおしく思う気持ちは、たしかにここにある。