はっと目を覚ますと、そこは全く見覚えのない場所だった。
空いたままの電車のドアから、涼しい風が流れこんでくる。
私に「終点ですよ」と声をかけてくれたであろう駅員さんは、もう隣の車両に移って、私と同じような過ちをしでかした人がいないか見回りに行ったようだった。
まだ夢と現の境をさまよっている頭で、立って歩けと体に指示だけしてみる。私の体はふらりと椅子から離れて、涼しげな空気のほうへとゆっくり飛び出した。
場所に見覚えはないけれど、駅名に見覚えはある。それもそうだ、終点なのだから、乗る電車に行き先として表示されアナウンスまでされている駅名だ。知っていないはずがない。
そっかあ、こんな駅なんだぁ。初めて来た。醒めきらない頭でなんとなく思っていると、ぷしゅうと音を立てて乗っていた電車の扉が一斉に閉まった。ついでに車内の電気も消えて、「回送」表示になった電車は静かに終点のその先へと走り出していく。彼のお仕事は、今日はこれで終わりなのだ。お疲れさま。
私も帰らなきゃ、と電光掲示板に近づいたものの、来る予定の時刻は何一つとして表示されていない。代わりに「本日の運転は終了しました」という文字だけが、淡々と浮かび上がっている。

「…えっ、」

やばい。
ようやく起き上がった脳が焦りを全身に伝え始める。まさか見る方面を間違えているとか、と思ったけれど、それも間違っていない。なんてこった、寝過ごして帰れなくなってしまった。
花の金曜日、特に酔い潰れていたというわけでもないのに、まさかこうなるとは。いつもなら降りる駅の一つか二つ手前の駅くらいで起きれるのに。
ホームの見回りに来た駅員さんが、「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。大丈夫じゃない、けれどそう言ったところでこの人が特別に電車を動かしてくれるわけでも車を出してくれるわけでもない。ぎこちなく笑いだけ返して、逃れるように改札へ向かった。

胸だけじゃなくておなかの中の空気も全部吐きだしたんじゃないかと思うくらい、長いため息が改札を越えたあとに出てきた。 履いているパンプスのヒールが奏でるリズムも、すっかりスローテンポである。
外は暗い。終点の地なだけあって、街灯の間隔もなんだか広く感じられる見慣れぬ土地は、私を歓迎しているのか、拒んでいるのかもわからない無ばかりが佇んでいた。

鼻の奥が急にツンとして、目の端がじわりと熱を持った。
今日は散々だ。
朝は遅刻しそうになるし、お気に入りの手帳は忘れてくるし、仕事でミスはしなかったけれど、その後彼氏にばっさり振られるし。
目尻に浮かんだ一粒を指先で拭ってから、とりあえず今をどうするか考えることにした。
携帯電話の履歴から親に連絡しようとして、目についた今日のつい数時間前まで彼氏だった名前を見て、無性に胃のあたりに蜃気楼みたいな揺らぎがたちこめたので履歴を全部消去してやる。メールも消して、連絡先も消してしまえ。そう思ってメールの画面を立ち上げると、やり取りの一覧の中に、縋ってもいいんじゃないかと思えた名前があった。

『終電、寝過ごして終点まで来ちゃった。迎えに来て』

勢いでそこまで文面を作ってから、悩む。送信のボタンを押してもいいのか、計りかねた。
隣の家に住む一つ年上の聡い幼馴染は、ここからいくつを読み取るだろう。私のことを馬鹿だと言って、突き放すだろうか。彼は規律の厳しい部活の先輩のように厳しいけれど、血の繋がりなどないのに実際の兄のように、いや友人の話に聞くそれよりも甘い。
来てくれたら御の字だ、ええいままよ。
必要以上に力を込めてボタンを押した。メールが送られていくのを見ながら、忙しいであろう相手に送るものじゃなかった、とほんの少しだけ後悔をして、携帯をしまい込み息をつく。



「なんか、思ってたのと違った」

大学4年の途中から付き合い始めた同じ学年の彼は、酒を一口も煽ることなく、汗をかいた烏龍茶のグラスに視線を向けながらそう言い放った。別れて欲しい、そう続いた言葉よりもその前の言葉に驚いてしまって、ぼんやりとうん、と返してしまった私は、烏龍茶とお通しの分にしては少し多く置かれたお金を数えることもせず、私を店に置いて去っていこうとする彼の背中を見送ることもせず、ただ呆然と彼が座っていたあたりの空気ばかり眺めていた。
その空気をとりこんだって私の胸に空いた不自然な穴は埋まるはずがないのに、私はしばらくただ呼吸をするだけのいきものになっていた。
店にいる意味もなくなったから、残されたお金を有り難く(なんて思う余裕もなかったが)支払いに使って、ふらふらと街を歩いているうちに終電の時間になってーー気がついてみたらこのざまである。
寝過ごしたことも含め、なんだか長いこと、考えることをやめてよくぞここまで動いたもんだと今になって思う。

秋も深まって、少し寒暖差が堪える時期になってはいたが、さほど寒すぎるということもなかったので、やがて辿り着いた小さな公園のベンチに座ることにした。
結局、お父さんにもお母さんにも連絡してない。今までの通学も、通勤にもさして不便しないから実家を出ようと思ったことは一度もないけれど、こういうときは面倒だなあと感じてしまう事はある。
基本的に寛容でマイペースな母は夜が遅くてもそこまで言ってこないが、父は全くの真逆で、帰る時間に厳しくしたがる人だった。母のおかげで今まで事なきを得てきたけれど、さすがに終電を過ぎたことはないから、今回はお咎めがきついかもしれない。怒る父の顔を想像しただけでも苦い気持ちになる。
時間が時間なので2人とも寝ている可能性もある。いや、むしろ寝ていてほしい。そうすれば、苦い思いをするのは明日の私のはずだ。といっても、日付のうえでは、もうその明日になっているのだが。

「はあ…」

嫌なことから目を背けて別の嫌なことを考えてみても、胸に空いた穴の違和感はとれない。
見上げてみた空は、ビルだとか明るい建物があまりない地域だからか星の光がいつもより降ってくる気がした。

(思ってたのと違ったって、何よ)

こういうとき、せっかくだったら星座に詳しければよかったと思った。もしかしたら、気を紛らわすのにその知識が一役買ったかもしれないのに。

(私に何をどう思ってたっていうの)

またじわりと、視界が滲む。皮肉にもそれによって星がぼんやりと揺らめいて、不思議な光景にも見えた。欠けた月も角がやんわりと見えて、普段よりあたたかな印象だ。

(私が何をしたっていうのよ、)

やりきれない思いが、涙といっしょに胸の穴へとじわじわ満ちる。悲しいのか、悔しいのか、自分でもよくわからなかった。やがて涙がほろりと頬を伝ったとき、星がきらりと瞬いたように思えた。


「…何にもしなかったから、だめだったのかも」


呟いても、その答えの正誤を判断してくれる人物はいない。
静かに流れる涙を感じながら目を伏せると、音を切っていた携帯電話が、鞄の中の空気を震わす音がした。
画面に映し出された名前は、先程半ば自棄になって救難信号を送った相手だった。

「はぁい」
『今どこ』
「知らない公園」
『…駅の近くにいるから、さっさと戻っておいで』

電話越しでもわかる、ちょっと怒気を含んだ声。父ほど厳しくもないけれど、彼も大概心配性である。たいそう小言を浴びせてやりたいだろうに、そうしないのは優しさか、それとも直接言ってやろうと思っているだけなのか。私が鼻声なのが彼に伝わっているかどうかは定かではないけれど、メールから何か察してくれたのかもしれない。



「乗って。話は中で聞くから」
「ありがと半兵衛」

着いて早々に助手席のドアを開けられたので、幼馴染のその紳士的な振る舞いに甘えて遠慮なく車へと乗り込む。涙は拭ったけれど、今自分の顔がどうなっているかまでは確認しなかった。へらりと笑ったつもりだったが、さっき涙が伝った頬が変に乾いて引きつった。
半兵衛が車に乗り込んで運転の準備を整える間に、シートベルトを引き出してかちりとはめる。スイッチ音のようなそれに、私の心も切り替わればなと、小さく念じた。

静かに走り出した車の中に、エンジン音だけが響く。車特有のにおいと運転席にいる彼のほのかな香りが混じって、いつもなら安心するのに、話を聞くと言っておきながら何も言わない彼の存在が不自然に感じられて妙な居心地の悪さがあった。このまま何も訊かないでくれればいいのにとは思うけれど、彼のことだからそれはないだろう。説教を待つ小学生のように肩身の狭い思いをしながら、ただひたすら彼が口を開くのを待った。

「…それで?」
「………」
「何があったかは大凡想像はつくけれど、言っておきたいことがあるなら聞こう」
「…まさか寝過ごすとは思いませんでした」
「まあ、そうだろうね。他には?」

暗にその答えが聞きたいのではないと言われたように思えて、出そうか迷っている言葉ごと喉に粘っこいものが絡みつく。やっぱりばれているのだ。今まで彼に隠し事をしようとして、うまくいった試しは一度もなかったことは、私が一番よくわかっている。


「……彼氏と別れた」
「…そう」


しんと車内が静かになる。真っ暗な外とは隔たりがあるのに、足音をたてることさえ憚られるような虚ろはここでも変わりないようだった。
半兵衛は小さく返事をしたあと何も言ってくれない。
最近買ったばかりの花柄のスカートを握ってめいっぱい皺を作りながら、一人きりで考えて積み上げた思いを取りだした。


「思ってたのと、違ったって、言われて」


学部も専攻も重なっていなかったけれど、彼とはやけに話が弾んだ。
一日中遊園地で遊んでいたって、新たな発見こそないが、楽しく過ごせていた。偽らないありのままの自分でいていい人なのかもしれないと、思っていたのだ。でもそれは、きっとお互い学生だったからこそなのかもしれない。
彼も私も働き始めてから、会えない時間が多くなっていった。覚えなければいけないこと、背負わなければならないこと。何もなかったあのころは、愚かしくも輝かしい、楽しいことにだけ目を向けていればよかった時期だった。
春を境に、それが変わった。それだけのことのはず、なのに。


「素の自分でいられる相手だと思ってたのに、自分のこと、否定された、みたいで…っ」


弱音にも似た、胸の穴の一番下に積んでいたしこりが涙に栓をしていたらしい。吐き出しきると同時に、先程までとは比べものにならないくらいの思いがこみ上げて、私の声を震わし、頬を涙でしとどに濡らした。手の甲で拭っても拭っても、どんどん出てくる。零れ落ちたしずくが皺だらけのスカートに落ちて、描かれた花びらをじわりと濃くした。はらはらと落ちていく涙に濡らされる花が増えていく。隣にいる彼に、みっともない姿を晒してしまっていることはもはや今更のことのように思えた。


「そんな男とは別れるべくして別れた、とでも思えばいいじゃないか」


ぐずぐずと水混じりの音を自ら発しながら聞いていた耳に、凛とした声が刺さる。
自分でもびっくりするくらいぴたりと涙が止んで、今半兵衛が何と言ったのか、ぐるぐると頭の中で反芻していた。
瞬きも忘れて半兵衛を見やるけれど、彼は涼しい顔でちかちかと点滅する赤色の信号に目を向けたままだ。

「い、ま なんて」
「別れて当然の男だった、それだけだ」
「…なんで、」

半兵衛にそんなこと言われなきゃなんないの。絞り出した声は、泣いたのがなくても震えていただろう。
彼が言うように割り切れれば、どんなに簡単だろう。けれど曲がりなりにも情を許した相手である。振られた身とはいえ、言い知れぬ理不尽さを感じて、少しだけ腹が立った。

慰めてくれるだろうと、思っていたわけではない。ただ私に終電を逃したことへのお小言を浴びせて、話を少し聞いてくれさえすれば。そんな私の期待も空しく、彼は私の心に塩でも振りかけるようだった。

「大体君は人を見る目がない」

それだけでは飽き足らず、傷口にその塩を塗り込んでやろうというのだから、彼に助けを求めたのが間違いだったと思わざるを得ない。

「お人好しが過ぎて油断と隙だらけだし」
「う…」

付け加えて、気分屋だとか注意力が散漫だとか、散々な言いようである。とても言い返せる気力ではない。しかも間違っていないとくれば、口を挟む余地はあるはずもなかった。
つらつらと並べられる数々の短所に、また別の涙が浮かんできそうになる。これじゃ本当にお説教だ。

「愛想がよすぎるのも考えものだし、」
「…も、もういいよぉ…」
「君にも多少なり原因はあったかもね」
「……そう、かもね」

文句のひとつでも言えれば、賢いが少し意地の悪い彼と、それになんとか突っかかっていこうとするいつもの私たちなのだろう。でも、今日はそうはいかない。きっと私が朝家を出るのが少し遅かったところから、「いつも」の歯車が狂ってしまって、修正案を書くための手帳も持っていなかったから。いびつな嵌まり方をした歯車が、幼馴染の言葉にいちいち心を抉られるような、弱い私を作りあげている。
けれどどうしたことか、「いつも」の通りでなかったのは、どうやら私だけではなかったようなのだ。



「…まあ、そういう所も含めて、僕は君のことが好きだけれど」



は、と私至上最高に間の抜けた声が出たのは、それを耳にして数秒経った後だった。
これまた驚きで涙は引っ込んで、もしかしてこれが今日の半兵衛の慰めるための策なのかもしれない、なんて思い巡らせてみたけど、それにしたって今の発言は、おかしい。
言った本人は何食わぬ顔で前だけを見据えてハンドルを握ったままで、今の発言すら幻だったのではないかと疑うくらい、いつも通りである。ついに幻聴が聞こえるまでになってしまったのかと自分を疑っていると、「言っておくけど、幻聴かなんて悪ふざけは無しだよ」なんて心を見透かしたかのように声をかけてくる。


「じゃあ――」
「友愛の意味で、っていう勘違いも無しでね」


嫌というほど的確に退路を絶たれて、いよいよ真面目なほうに考えざるを得なくなる。
じゃあ、確かに半兵衛が言った「好き」という言葉は、私が今日別離を迎えた相手に今まで抱いていた感情と、ほぼ近しい意味での言葉であると、そういう、ことなのだろうか。
何故こんなときに言うのか、幼馴染であり兄妹のようであり悪友のようでもあったと、少なくとも私は思っていたのに、どうして。胸の穴を埋める勢いで、疑問ばかりが積み重なっていく。
わずかな抵抗感と共に止まった車は、気付けば見慣れすぎた自宅の前へと着いていた。



「はいっ」


びっくりして声が上ずる。私の反応が可笑しかったのか、半兵衛は小さく笑い声を漏らしたあと、幻想的な夕焼けの色にも似た藤色の瞳をこちらに向けた。


「君が好き」


思わず熱くなる頬に、半兵衛のやや冷たい、白くて細長い指が触れる。
反射的にぎゅっと目を閉じてから、失敗したかもしれないと気付いた。これじゃあ、この先されることを期待しているみたいじゃないか。けれども目を開ける勇気もなくて、頬に触れた指が首の後ろへと滑って、彼のもう片方の手が私の前髪をはらうように触れるから、ますます目を開けづらくなった。
予想した場所ではなく、泣きはらした瞼にそっと、やわらかな感触が一瞬だけかすめる。
拍子抜けして目を開けると、思った以上に近くにあった見慣れた端正な顔立ちに、どきりとした。
半兵衛は私の頭をやさしく撫でて、ゆっくりと離れていく。不意におとずれた名残惜しさに、自分でも困惑した。

「返事は明日でいいから」

猶予を与えているようで、その実それ以上は待たないと示している言葉はどこかいつもの彼らしい。
うん、と子どものような返答しかできない私をもうひと撫でして、彼は「おやすみ」と涙越しに見た月のように清廉で、やわらかな声で言った。
この先のやりとりは、今日ではなくていい。幼馴染として一緒にいたときからずっと、彼の言うことは基本的に正しいと信じてきた私はそれを受け止めて、そっとシートベルトを外した。

「半兵衛」
「うん?」

車の外に降りて、運転席の窓を開けていた彼の名を呼ぶ。
月の光をうけてやさしく輝く白銀の髪が、やけに美しく、愛おしく思えた。


「…また、明日」
「うん、また明日」