千歳くんは、風みたいなひとだ。


風といっても色々あるけれど、台風だとか嵐だとか、勢いがあって、激しいものでは決してない。
嵐のようなと形容されるのは、同じクラスの白石くんが手を焼いているという1年生の遠山くんのほうがしっくりくる。けれど彼は太陽のようなまばゆい明るさも持ち合わせているし、嵐そのものと台風一過の気質を兼ね備えたひとだ。あまり多く話したことはないが、わずかな時間話しただけでもこう思うのだから、より多くの時間を彼と共に過ごす白石くんをはじめとしたテニス部のみんなはそりゃあ手を焼くだろう。(といっても、くせもの揃いの四天宝寺テニス部にとっては思ったほどそうでもないのかもしれない。)
もうひとり、同じような例えが似合うのは忍足くんかもしれないが、彼は「疾きこと風の如く」というたとえのほうがふさわしいだろう。吹き抜ける風。いちど白石くんにこぼしてみたことがあるけれど、「なんや関東のエラい奴思い出すわ」と苦い顔で笑っていた。(そんな足の速い子が関東にもいるのかな。)

千歳くんはといえば、そういう風とはちがう。

つかみどころがなくて、流れるようにあちらこちらへ。かと思えば、ふとした瞬間に髪を揺らす、気ままな風。ふわふわと彷徨うさまは、雲のようでもあるけれど――



「あ」

千歳くん。
忘れ物をとりに教室へ戻り、ふたたび体育館へと向かう道すがら、その人を見つける。
背が高いから彼はどこにいても目立つものの、ふと目を離すとこつぜんとその場からいなくなったりすることも珍しくない。
すでにジャージに着替えて同じ方向へむかっているようなので、今日はどうやらきちんと体育の授業に出るつもりらしい。急ぐ様子もなくのんびりと歩いている背に、名を呼びかける。振りむいて「おー」とゆるく返された。

「なんね、随分のんびりやなか?」
「忘れ物しちゃって」
「そか」

でも私まだ着替えてないし、急がないと。そう言って半歩踏み出そうとした矢先、千歳くんの指先が額をかすめる。私の前髪をかるくはらった手は、すぐにジャージのポケットにしまわれた。

「はよう行きなっせ」
「あ、うん」

真意を問う間もなく声に背を押される。なんだったんだろう、いまの。時間を気にしなければいけないのも事実だったので、駆け足で更衣室へと向かったものの、かすめた指の感覚がしばらく残ってはなれない。



――千歳くんが雲だとするのなら、ああやって自発的には動けないはずだ。風に流されて動くのではない。彼がふらりと起こす行動には、いつだって意思がともなっている。何かを語るような、示すような風がときたま吹くのとおなじ。
だから、千歳くんはおだやかで気まぐれな風。これが私の持論。

ふと胸中の人物に目を向けてみれば、ゴミ箱に丸めたちり紙でも入れるようにひょいとボールを投げて、得点を決めていたところだった。いいなあ。私もバレーじゃなくて、バスケがよかった。体育館を半分に区切る緑色のネット越しに、ぼんやりとごちる。1組と合同で行われる体育の授業は、女子はバレーボールだ。体育館というただでさえ限られた空間を男子と女子で分けているため、必然的にコートの数は少なくなるし、入れる時間も限られている。試合ができないあいだ、みんなは世間話の片手間に、こっそりネットの向こうの男子に視線をおくるというのが常だ。とくに視線を集めているのは、やっぱりというか、白石くんである。スリーポイントなんて決めようものなら、周囲からちょっぴり黄色い声すら上がるし、失敗したところで上がるのは同情のため息。ああ惜しい、次こそは決まりますように、と。ギャラリーをとられてしまったバレーボールの試合は、微妙に盛り上がりに乏しい。

いつもなら、私はどちらかといえば真面目に授業の一環としてバレーの応援にいそしんでいるところだ。白石くんはたしかにかっこいいけれど、同じクラスであるがゆえ、見ること自体はいつでも可能だし、今日視線で追ってしまっている彼は、そもそも授業にいないことのほうが多い。いたとしたって、ああ出席してるな、くらいのものなのに、今日はどうにも直前のできごとが頭からはなれず、結果、不真面目なギャラリーと化している。

周りの男子よりも頭ひとつぶんはゆうに高い千歳くんは、座っていなければ探す必要もないほどすぐ目についた。とくに身長が有利になるバスケなんてしていれば、目立つのも不思議ではない。まじまじと見る。
転入に際しあつらえられたであろう指定のジャージは周りの2年先輩のジャージたちよりほんのりハリがあるように見えるし、長身の彼の丈に足りてないこともないし、肘や膝にあたる部分は摩擦でぴかぴかしていることもない。
同じ時期に買ったであろうはずなのにいつもは履き潰され、くたびれている上履きのかかとも、起き上がってあるべき形におさまっていた。
着くずした制服姿ばかり見ているせいか、どうにも見慣れない。このあいだ、千歳くんに連れられて見に行ったテニス部の練習のときの姿と同じような違和感。ただ今よりも、テニスウェアに身を包んだときの彼のほうが楽しそうに笑っていたように見えた。




千歳くんの意味ありげな”いたずら”は、なにも今日に始まったことではない。

昇降口でばったり会ったとき、移動教室に行く途上ですれ違ったとき、帰り道でうしろから追い越されたとき。
それはふいに、一瞬だけ、もしかしたら気のせいなのかもしれないと思うほどのさりげなさでもたらされる。
肩に触れる、頭を優しく叩く、髪を一房だけすくう。
そのどれも、どうしたのと言うより早く終わり、仕掛けていった張本人はそれについて何も言わず去っていくのだ。
ぬるいあたたかな感覚だけが残り、みょうにこそばゆい。
やがて気にしていても詮無きことと悟り、気まぐれからきた”いたずら”だとして気にしないことにする。

だから今回も、そうするのが最善なのだ。きっと。



「千歳くん」
「あいたー、また見つかってしもうたばい」

今日は屋上だった。
気ままにあちこちに行ってしまう千歳くんは、授業も部活も出ないことなんてざらで、見つけるのも意外と苦労するらしい。
なぜか千歳くんに遭遇することの多い私は、その偶然の引きの強さを買われ千歳くんを探すように乞われることも多くなっていった。(おもにテニス部の部長である白石くんに。)
千歳くん探しのコツは、探さないことだ。
目的地を決めず、その日の気候や気分、思いつきの寄り道。気の向くまま、足の向かうほうへ行ってみる。
そうすると、その途中で千歳くんに会うことが多い。
無駄をきらい、完璧を目指す白石くんには、この方法はたぶん向いていない。本能で動いていそうな遠山くんとかのほうが、得意なんじゃないだろうか。

千歳くんは寝転んでいた体を起こすと、髪をわしわしとかき混ぜながら眉を下げてへらりと笑った。
部活はいいの。「見つけたら言うように」と教えられたせりふを、お決まりのように投げかける。
んー、空を見ながら返された間延びした音を聞くに、どうやら今日は行く気はないらしい。ごめん、白石くん。そっと、今ごろ部活の練習に励んでいるであろうクラスメイトに謝る。でもテニス部ではないよそものの私ができることとすべきことは、これだけだ。
そっか。ひとり勝手に納得して、千歳くんのとなりに座る。

「今日は風が気持ちよかね」
「うん。最近ちょっと暑くなってきたから、ちょうどいいかも」

目を閉じて、風を感じてみる。さわやかに肌をなでていく初夏の風が心地よい。
近頃日差しが強くなってきたから、これからはもっと暑くなっていくんだろう。そうなったら、散策ルートに屋上を選ぶことも少なくなっていくかもな。日の光を遮るものがほとんどないここは、夏の砂浜と同じくらい”熱さ”を存分に堪能できる場所に違いない。学校の裏山とか、緑が多い場所のほうがこれからの時期にはいいんじゃないか。
想像の木陰を経て涼やかさを得た風がさらりと髪を揺らす。前髪がすこし横に流れて、昼間の”いたずら”がフラッシュバックした。
次いで、熱。
はっとして目を開くと、横についた自分の手に千歳くんの手が重なっている。
千歳くんはといえば、変わらずぼんやりと空を見上げてはときたま目を閉じたりしていて、こちらを気にしているそぶりは見えない。うっかり触れたというには、あまりにも不自然な反応である。
まさか、千歳くんともあろう人が、気付いてないわけはないだろう。

いつもの”いたずら”とは違い、長いあいだ手は触れたままだった。あつくもなく、ひややかでもない熱をもった大きな手。こちらの手を握るでもなく、骨ばった長い指が、やさしくそこにあるだけ。
触れ合ったところだけ、ゆるりと互いの体温が溶けていく。
それでも千歳くんは、やっぱりなにも言わない。言ってくれない。
なあに。自分がひとことそう問えばいいのに、あまりに千歳くんのようすが何事もないかのようなので、口に出すのもためらう。屋上のコンクリートの地面に直接ふれている手のひらが、じわりと汗ばんでいく感覚だけがやけに鮮明だ。

ひときわ、強い風が吹き抜けた。思わず目を瞑った拍子、指がかるく握られ、そして離される。
あ。口をついて出た声に、いつのまにか立ち上がっていた千歳くんが振り返った。
どぎゃんしたと。
静かに問われるも、自分でも発するつもりのなかった声だったので、返す言葉など用意していない。
なんでもない。

確かに触れていたはずの千歳くんの手は、すでに制服のズボンのポケットへと仕舞われているし、かすかな熱も筋ばった手の感覚もあっという間に風にさらわれ、もう思い出せない。
やっぱりいたずら、だったのかな。
千歳くんの何かしらの思惑がともなっているはずの”いたずら”は、今日も気まぐれとして処理するのがよさそうだ。それ以外だと受け止めるための度胸も、確かめるための勇気も、今の私にはないから。
なんでもなかった。そう思うことにする。今日も、きっとこの先しばらくも。

は」

千歳くんがいう。

「雲みたいやね」

雲? そのまま繰り返してみても、唐突な言葉に理解が追いつかない。
いっちょん掴めん、千歳くんは言いながら、空に浮かぶ雲を見つめて先ほどまで私の手に重ねていたほうの手を伸ばす。
雲。声に出さず呟いて、千歳くんが見ているそれを見上げてみる。ふわふわとして、触れそうなのに掴めない、届かない、佇むふしぎな白いかたまり。千歳くんくらい背が大きければ、雲にだって届きそうなのに。
見つめる雲は、ここよりも勢いのあるらしい上空の風に押され、心なしか早いスピードで漂っている。
いっこうに掴めそうにないのは千歳くんのほうだよ。声に出さず言い返す。だって雲より実態のつかめない風なんだから。

「そうかなあ」
「そうたい」

立ち上がり、千歳くんの隣に並び立つ。
私にとって千歳くんは風で、千歳くんにとって私は雲。
よくよく考えてみれば、意外と合っているかもしれない。気まぐれな風に、流される雲。
おだやかであっても、ときたま不思議な風であっても、雲はけっきょく、流されるだけ。
ちょうどいいのかもしれない。風に流されるくらいで。決定的に掴めないくらいで。
どこか似た者同士だから見つけることだってできるけれど、やっぱり別の存在だからわかり合えないくらいで。
つかずはなれず。私たちに似合いの関係性だ。

「な、一緒に帰らん」

千歳くんはのぞきこむようにして私のほうを見る。その瞳にうつる私が雲なら、私の目にうつる千歳くん自身はいったい何に見えているんだろう。

「いいよ。部活終わるまで待っててあげる」
「そうきたか」

叱られた子どもみたいに困り顔の千歳くんに、言外に含めた意図は伝わったようだ。
お前さんばっかし俺ん扱い方わかってきちょる。こぼす彼の”いたずら”の扱いに関してはからっきしであることは、ちょっとだけ悔しいので黙っておこう。
大きく息を吐いた千歳くんは、観念したと言いたげに、両手をポケットにつっこんだまま肩をすくめた。

「仕方なかね」
「うん、終わったら、帰ろ」

ふたりで。
千歳くんがわずかに目を見開いて固まる。先日の部活見学ののち、テニス部のみんなと帰った光景でも思い描いていたのだろうか。
誘った時点では千歳くんが想定していたであろうことなのに、へんなの。
思いながら、前髪をゆすっていく風とともにやわらかに顔をほころばせる千歳くんの返事を待った。